第21章 「社会での第一歩」
はじめに
およそ6年間の学院生活(義務教育)を終え、普通の少年と同じ様に一般社会に出て行った訳です。が、学院生活最後の年での正月帰省の際に、育ての母(義姉)から「進学はしておきなさい!」と強く言われそれに対して私は何やかんやと言い訳を付けては反抗して口喧嘩になってしまい、結局は言う事を聞かずに就職という道を選びました。 その時の私にとって、「中卒」という学歴が社会に出てもそれほど影響のないものだと思っていました。社会の常識にあまりにも無知だったと言う事ですが・・・。
高校進学など、私にとっては必要性の無いものだと思っていました。
そしてまた、社会は、企業は、「実力の有る者を必要としている筈」。そう想っていましたから、 当時の私にとっては「中卒」という最終学歴は恥じてもいませんでしたが・・・。
その時の私は、こう思っていました。
高校に進学した同年代の奴らに絶対に負けない為には、社会に出てから、とにかく沢山の経験を積む事。だから、なんでもかんでも、とにかくどんなに苦しくても、どんなに辛くても、社会での苦しみになんかには俺は負けない!
負ける筈がない!と、そう思っていました。
その自信はいったい何処からきているのか?
それは、あの6年間の学院生活でどんなに肉体的に痛めつけられようが、なにをされようが、どんなに辛く苦手な事を要求されても、それをこなし、そして耐え抜いて来た6年間の、そんな学院生活があった事が私の絶対の自信になっていました。
やれば出来る!やれば何でも出来る!!「やる気」さえあれば・・・と。
ですから学院生活での辛さからすれば、社会の辛さなど・・・。
社会は「自由」で、そしていつでも好きな物が食べられて、そしていつでも好きな物が何でも買えて・・・。そんな生温い社会の辛さなど・・・と。
食べたくても食べられない。
いくら欲しいと望んでも、絶対に貰えなかった環境。それどころか、そんな事を言う事さえも許されなかった・・・。
そんな学院生活からすれば、こんな自由な社会なんて・・・。
だから絶対に負けねぇ!
これから沢山勉強して、うんと努力して絶対に経営者になってやる!
そしていつか必ず、「大学卒」の奴らを顎で使ってやる!
平々凡々と親の脛をかじって高校そして大学と行っている奴らなんか、社会に出てから大した役にも立たないさぁ!
そんな奴らが勉強している間に、俺は社会で沢山経験を積んで実力をつけてやる!
経験に勝るものは無いんだぁ!と、自分を励ましていた時期がありました。
一生懸命学問に励んで大学に進まれた方。また、卒業され、この厳しい社会の中で素晴らしき陣頭指揮をとられている方。そして現在、ご自身の努力で一生懸命に学問に、勤勉に励んでおられる学生の方。そんな皆さんも一緒だとはけして思ってはいません。
どうか素晴らしき社会。素晴らしき人格の優れた人材を育ててあげてください。
是非是非、心より御願い致します。
確かに、今思えば、この時の私の心も環境も、「親いれど 甘え頼れる 親は無し」といった感じで、親に甘えている同年代の奴らが羨ましかったぁ・・・。
親と楽しそうにしているその姿が妬ましかったぁ・・・。
我が子の為にと、学費も何でもお金を出してやっているそんな親が、自分にも・・・。
それら全てが、羨ましくもあり、妬ましくもありました。
「俺だって!俺だって!そんな奴ら以上の幸せを掴んでやる!そして誰にも羨ましがられる大きな家と家庭を築いてやる!」そう強がっていました。
事実、この強がりがその後の私の人生に於いて、自分を磨き、そして育ててくれた源であった事にかわりはないのです。
この強がりが、自分に沢山の経験を与えてくれました。
そしてまた、沢山の試練をも与えてくれました。・・・
(旧姓)鈴木 真樹生は、「夢と希望」を抱き、こうして社会での第一歩を踏み出したのです。
「社会に出ての初めての仕事」
学院を卒業後の私の就職先は、当時、札幌の豊平区月寒(つきさむ)に在った、ある自動車整備会社に就職しました。この「月寒」という地域には「月寒東高等学校」とう高校が在り、その高校が後の私の人生に影響を及ぼした事となった訳ですが、その事についてはいずれ「こんな人生だからこそ」に書く時が来ます。
とにかく車の仕事に携わっていれば、いずれは「レーサー」になれる時が来る!
そんな希望を抱いて就いた職業でした。
仕事は4月1日からでした。
初仕事に行く日までに、色々と準備をしておかなくてはならない事があり、その一つに「車の整備に使う道具」。レンチやスパナなどの仕事道具を買う事がありました。
どの様な道具が必要かは私が就職した先の自動車整備会社に勤めていた方が、オヤジの知り合いにいらっしゃったので、その方の案内でお店に連れて行ってもらい、必要な道具を選んで頂いて購入したのですが、その会社では道具は「自分持ち」だった様です。その時の私にしてみれば、必要なものは全て学院で用意してくれましたから「自分で買う」と言う事がこの会社だけ!?と思っていました。
しかし、実費で購入しなくてはならないという反面、自分の気に入った物が買える!と言う事が、「物を大切に使う」と言う学院での基本的な物の考え方(教訓)が活かされ、そしてその芽を知らず知らず自らが育てる事のキッカケとなっていました。
お店で道具を選んで買った時の事で、唯一はっきり覚えている事があります。
忘れもしません。つなぎ(作業服)を買った時の事です。
濃い赤茶色の様なワインレッドに近い色のつなぎに、2本の黒のストライプが襟からず〜っと下まで付いていた作業着を買った事を・・・。
そして道具を一揃い買い、家に戻ってから直ぐにそのつなぎを着てオヤジに見せて喜んでいた自分をとってもよく覚えています。嬉しくてねぇ〜・・・。
「これで自分も社会人の仲間入りだぁ!」と喜んだ事を忘れませんねぇ〜あの感動は・・・。
そんな感動を与えてくれる物には、個人差もあり、そして様々な物があるでしょうが、キッカケこんな些細な事なのです。物の大きさとか、物の値段の高さとかそんな事では無いんです。
この「社会人の仲間入りだぁ!」と言う事が、教護院や施設で育った子供にとってどれほど嬉しくて、どれほど勇気と希望を与えてくれる事か・・・。
おわかりになられますでしょうか?
「自分は一人ぽっちじゃない!一人ぽっちじゃない!」
嬉しいんです。本当に心から、「社会が自分を受け入れてくれたぁ!」「自分を一人の人間として認めてくれたぁ!」そう自分で勝手に思い込んでいるんですが、でも、とっても、とっても嬉しいんです。そんな些細な事であっても・・・。嬉しかったんです。私にとっては・・・。
「仕事は見て盗んで覚えろ!当たり前の事ですが・・・」
その時の記憶は、それ以外の例えば初仕事をする前の「就職先への訪問」とか、「社長さんとの面接」とかがまったく記憶に無いのです。突然4月1日に行き、その日に面接してOKが出て直ぐにその日から仕事した筈もないのですが・・・。まったく記憶に残っていません。
ただ4月1日が初仕事で、その日の朝、会社に出勤して直ぐに「工場の人への挨拶」やら、これから自分が使う「ロッカーの場所」やら、なんやかんやと教えて頂いてから、「タイヤ交換の作業」をしている様子を見て、先ずは「手順を覚える事」が初日の仕事でした。
見る物、触る物全てが珍しくてねぇ〜。
タイヤ交換の作業は現在とは違って、その当時はタイヤに空気を入れる作業意外は、道具は使いましたが全て手作業でした。
タイヤをホイルから外す為の最初の作業。
「タイヤの耳落とし」という作業から始まり、その「耳落とし」作業を終えて初めてタイヤをホイルから外す事が出来る「基」が出来るんです。
その耳落とし作業を終えたら次は「枠外し」。そしてタイヤをホイルから外す、「タイヤ外し」。
金属製のへらを2本使ってホイルからタイヤを外すのですが、どの作業も手作業の為にコツがあって、さすがに職人さんは手馴れたもので「無駄の無い手早い」作業。
工場の奥にはビニールシートで囲った部屋が在り、そこでは車のボディーを塗装する作業と、傷やへこみを修理する板金作業が行われていました。
塗装に関しては私も絵を描いたりする事には興味がありましたら、とってもその作業には興味を抱きました。「いつかあの仕事もさせて貰いたいなぁ〜」と思っていましたよ。
こうして見る物全てが興味津々で、「早く車の構造を覚えて、そして修理も出来る様になればレーサーになる時には絶対有利だぁ!」と、そんなおとぎ話のようなレーサーになる夢を抱きながら、「一日も早く一人前の整備士になろう!」と、必死に職人さんの仕事ぶりを見ては、盗すもうと頑張っていた事がありました。
ですが見ているのと実際にしてみるのとでは、そこには大きな落差があり、実際に仕事してみれば、へらを足にぶつけたり、タイヤが弾けて飛んできたりと、よく足に痛いおもいをしたものです。
そうして痛い体験をしながら体で覚えて行きましたが、その甲斐あって普通の人よりもかなり速いペースで仕事を覚えて行っていたそうです。
と言うのも、ある日のお昼休みに、数は覚えていませんが就職してまだ日が浅いのに半日で何本もタイヤ交換をこなした事があるんです。
その時に、「これだけの本数をよくこの短い期間に仕事を覚えて、こなしたなぁ。たいしたもんだぁ!」と、褒められた事を覚えています。
そして褒められた事が凄く嬉しくて、そして、「又褒めて貰おう!」と、タイヤ交換の作業を必死でやっていました。よく覚えています。
確かに褒められた事がとっても嬉しかったのです。しかしそれ以上に、「自分を普通の人と代わらないという事を認めてくれた。」と言う、そんな私の勝手な解釈ではありましたが、そう思えて・・・。それがなによりも嬉しかったのです。
そしてそれが自分への「自信」にもつながっていたのです。
「何でも一生懸命頑張れば何でも出来る様になる!」と。・・・
「社会の厳しい現実」
こうして頑張っていた鈴木真樹生君でしたが、ある時、「今のままでは先が見えている!」と判った事があったのです。それは整備士の資格を取得する為の「受験資格条件」でした。ある日、中卒では整備士の資格を取れても3級整備士まで。2級・1級と資格を取得するには「高卒以上」でなければならないという事を知ったのです。
その事が大変なショックでした。このままではどんなに腕を磨いても、どんなに仕事ができても、学歴がなければ資格を取るどころか受験さえもできないというその現実に直面して、どんなに頑張っても、どんなに才能があっても、学歴がなければ誰も認めてはくれない。どこも受け入れてはくれない。という社会の現実の厳しさに愕然としたのです。
そしてその時初めて、「中卒」の初任給と「高卒」の初任給の差。そしてその後の「昇給条件等」を社長だったと思いますが聞いてみたのです。
それらの条件内容を聞いて、あまりの「差」の違いに、そして学歴で人の価値や限界が決められている社会の現実に、悔しさと、学歴で報酬や人格を判断されているそんな社会に、虚しさを感じました。あの時の悔しさは忘れる事はないでしょうし、そしてあの時の悔しさが、その後の自分を支えてくれた事も・・・。
この事がキッカケで少しずつ湾曲した人生。曲がりくねった人生を歩み始める事となったのです。・・・
何事も、事の始まりはちょっとした些細なキッカケですねぇ〜。
善い縁も。また悪い縁も、事の始まりは些細なキッカケです。
次回、湾曲し始めた人生を正直に書きはじめる事となりますが、それもこれも、今ではそれら全てが「今の自分の糧」となっている事だけは付け加えて、今回はここで終わりたいと思います。
どんな経験をも、活かすも殺すも「自分次第」。その事を身をもって今ひしひしと感じております。そして、「無駄なものなどなにも無い。」と・・・。
最後までお読み下さり、ありがとうございました。
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