第20章 「社会への旅立ちの時」
はじめに
およそ6年間の学院生活の記憶も前回で書き終えた。この先の「こんな人生だからこそ」は、いよいよ社会人の第一歩を踏み出した事から書き始める訳です。が、この「こんな人生だからこそ」を書くその大きな目的は、私と同じ様な、また、それ以上の人には話せない生い立ちをお持ちの方々に、僅かでも「あなたと同じ様な生い立ちを持つ者がこうして頑張っています!だから勇気を出してください!頑張ってください!」と言うそんなメッセージを残したくて書いています。そして実ればいいなぁ〜って!
そしてもう一つには、私自身の事ですが、「私の生い立ちや経験の全て」が、自分を成長させてくれている事に気付き、そしてそれらの全てが、その時々に「活かされている事」を感じているからです。その感じている事を書き残さずにはいられない。そして、それを書き残すには「自分の生い立ちを書かずには語れない。」そう思ったからです。
私もまた、人に支えられながら、また、守られながら生かされている事を感じております。
しかしながら、私は人様の「ハカリ」の上で人生を歩んでいる訳ではありません。私は自分の経験を基に、私なりに信念を持ち、そして自分の可能性と夢と希望を持って頑張っています。
それが周囲の方達にはどの様に映っているかは分かりません。ですが、私がどの様に映って見えていようとも、「迷う事なく我が信じる道を進むべし!」そう思い、自分と日々闘い続けながら頑張っています。こうして自分と闘う事は、正直大変です。ですが苦にはなりません。
周囲に解らない、見えない所で自分と闘い、そして向上して行けるのであれば、その道の行く手には計り知れない自分の可能性が在ると思うのです。それは何歳になっても。
結果はいずれ出ることでしょう。ですが今の私にとって重要な事は、「悔いを残さずに歩み続ける事。」この一言に尽きます。
人は失敗し続けて行くからこそ、そこから何かを見出し、そして何かを感じ、何かに気付き、そしてそこから学ぶ事ができる。だからこそ、その為の貪欲さがなくてはならない。
その第一歩は「勇気」だと・・・。
失敗する事は確かに恐いですし勇気のいる事ではあります。が、悔いのない失敗をし続けて頑張ってゆける人生なら、どんなに素晴らしいだろう?・・・。
そんな自分の人生の最後を見定めてみたいと思うのです。
「悔いのない失敗???」ハァ〜?と思われた方にはお分かりになっては頂けませんでしょうが、それでもいいのです。いえ、それでいいのです。
人生、人それぞれ。様々な価値観も、そして様々な考え方も沢山在っていいのです。
それでいいんです。それで・・・。
「勇気」
ある、I先生。
私の心の師とでも申しましょうか、その先生も言っておられました。
「勇気こそが・・・。」と。
I先生とは切り口は違いますが、I先生と同じく、私も全ては「勇気があってこそ!」だと思います。
勇気さえあれば!心さえ正しければ!この言葉を胸にしっかりと刻み、余生を全うする事が出来たならば、自分としては最高の人生ではないだろうか?そう思います。
それを可能にするかしないかは、自分次第。
それを決定付ける者、判断する者は周りの人達ではなく、己の心に存在するのではないでしょうか?
「負けてなるものか!お前になんかに絶対に負けるものか!」と、こうして自分と闘い、勇気を奮い立たせて・・・。
自分と闘う事なんて、「なんと無駄なッ!」と思われる方がいらっしゃるならば、この私の「こんな人生だからこそ」はこれ以上見ない方が、きっとあなたのためだと思います。
ただ腹が立ち、あなたにとってマイナスになってしまうと思うからです。
「いよいよ社会人として・・・。」
約6年間という期間私が育った大沼学院を背に、卒業式を終えて我が家へ向かう車の中で、次第に遠ざかる学院を感じながら、どことなく寂しく、どことなく名残惜しく感じていた事を覚えています。なんでそんな教護院なんかの事が「名残惜しいなんて!」と思われるかもしれませんが、私にも解りませんがそう感じたのです。
教護院を出られて自由になった筈なのに、「自分はこれから先、いったいどうなるんだろう?」という不安があったのです。
「これから先、オヤジの下でず〜っと一緒に暮らす事がはたしてできるだろうか?・・・」
「一生懸命頑張って働いて、一日も早くお金貯めて、部屋を借りて一人で暮らそう!」
そう思っていました・・・。
こんな不安と思いが、実は私を早い時期に独り立ちさせるキッカケとなっていた事など、当時の私には知る由もありませんでしたが・・・。
就職先が何処になったのかを書かずに「学院生活でのこんな人生だからこそ」を書き終えてしまいましたので、ここでその事について少しだけ触れておきたいと思います。
中学3年の10月か11月頃の事だったと思います。もう少し早かったかなぁ〜?・・・。
寮長先生に部屋に呼び出され、「鈴木は学院を出て行ったらどんな仕事に就こうと思っている?」と聞かれました。(当時の私の名字は鈴木です。)
中学2年の時の帰省中にある事があって、「自分も進学したいなぁ〜・・・。」と思っていたのですが、その事を寮長先生に話す事なく卒業式を迎えてしまいました。
たとえその時寮長先生に相談したとしても、何も変わらずこうして卒業式を迎えていたでしょうねぇ。きっと・・・。
私が真剣に本気で考えていた仕事は、「レーサーになりたい!」だったのです。
もしかしてあなたも今、・・・笑った?
笑われて当然ですよね。寮長先生も噴き出しはしませんでしたが、「はぁ〜?」って顔して苦笑いしていましたよ。でも本人は至ってメチャ本気だったのになぁ〜。ただ、「こんな事言ったら笑われるだろうな〜」と思っていながらも話したのですがねぇ〜。
その為に自分は何をどうすれば良いのかまったく分からなかったので、先生に話してみたのですが、こんな事を話してもどうにもならないと思い、それ以上この話には触れませんでした。
これが寮長先生がT先生で、この話をT先生が聞いてくれていたなら・・・と、ある時そう思いましたよ。
たとえレーサーにはなれなかったにせよ、T先生なら何とかして問い合わせて聞いてはくれていたんじゃないかなぁ?と、勝手に思っています。
このT先生とは、後の「こんな人生だからこそ」に頻繁に登場してくる先生ですが、何処の寮の生徒となく、多くの学院を卒業して社会に出て行った者達の「心の支え」になってくれた先生です。
そして何人かの卒業生は今でもその先生のお人柄に引かれ、再三迷惑をかけながらも、また、懲りずに迷惑をかけながらも顔を出していますが、それを拒む事無く、いつでも受け入れてくれる「温かな先生」です。ちょっと褒めすぎかな?
先生!なんか頂戴!!
私はT先生の寮の生徒ではない生徒でしたが、今でもお付き合いさせて頂いていますが、思うに先生がスピード出世できないその原因は、世渡り下手な(その原因の一つ、頑固一徹)先生だからでは?と、私の経験からその様に先生を見ていますが・・・。
とにかく本当に温かな先生です。
先生!荒波が来ようと何が来ようとも、ガンとして岩に張り付いている岩のりみたいにガッチリ岩にへばり付いていてもダメなんだよ〜。人もまた、時の流れや川の流れと共に新鮮な物を受け入れてやらないとぉ〜。
先生!頭の中を少しシャッフルしてあげましょうか?軟らかくなるかも〜ハハハ〜ッ。
先生を前にしてこんな事も冗談でも話す事ができる温かな先生ですが、本当は私が相手にされていないのかもね!
とにかく時期同じくして、学院を卒業した生徒にとってはありがたい先生です。
私の寮の寮長先生にとって「レーサーになりたいです!」なんて、アホみたいな事に聞こえる事を言っても、現実的でないし無理だよなぁ〜・・・。
それに「教護院出身じゃ〜・・・。」と、思っていました。
でもレーサーになる夢は諦めきれずに、「とにかく車にたずさわる仕事をしていればチャンスがあるんじゃないか!?」という可能性を持ちながら「自分は車が好きだから車にたずさわる仕事がしたいです。」と話したのです。
その結果何処でどう段取りされていたのかはわかりませんが、私の学院を卒業したその後の進路は「進学」ではなく「整備工場」への就職でした。
私の時代には、「中卒生は金の卵」という言葉がまだ残っていたそんな時代です。
「我が家となるべきその家での初日」
就職先への初出勤の日は学院を卒業したその同じ年の4月1日からでしたから、学院を退院したのが3月15日。整備工場への初出勤までには16日間という、何時に寝ようと起きようと、昨日までの学院生活の様に拘束される事も無く、「開放された数日間」がありました。その事で覚えている事は、3月15日のその夜の事と4月1日の初出勤の前日(3/31)の日の事です。この間の十数日間をどう過ごしたかは覚えていません。が、きっと楽しい毎日だった事でしょう・・・。
学院から解放されたその日の我が家での初夜は、自由になった筈なのにどこか不安でなかなか眠れない夜を過ごしました。何故かはわかりませんが、とにかく不安だった事は記憶にあります。それによく時計を見ては、「寮の生徒達、今頃はぐっすり寝ているなぁ〜・・・。」って考えてしまったり。
「うちの寮は卒業生が多かったから、突然少人数になってしまって掃除や今年の冬の雪かきなんかはどうするんだろう?・・・。」なんて考えちゃったり・・・。
学院を卒業したその晩から、既に学院が妙に懐かしくなっちゃってねぇ〜・・・。
「盆休みには学院に遊びに行こう!その日までに一生懸命頑張って、胸張って学院に顔出しに行こう!」こんな事を布団の中で考えながらなかなか眠れない一夜を過ごしてしまった事を覚えています。
オヤジは私が戻って来たせいか、以前の様なビールの焼酎割りをガブガブと飲む姿は無く、「オヤジ俺に気兼ねしているのかな?」なんて思わせるくらいその夜は深酒もせずにおとなしく寝ました。
オヤジは事業(コンクリート解体業)をしていましたから朝は早く、私が目を覚ました時にはもう家には居ませんでした。
約6年間居た学院を卒業した3月15日のその夜はなかなか眠れない一夜を過ごし、翌日、3月16日の朝を向かえたのでした。
生まれた時から学院に入る迄、病弱で、病気と、そして入院生活や親権者が著しく変わった事により小学校1年生を2年間繰り返す事で、通常より1年遅れの中学校卒業でした。この事を知ったのはズ〜ッと後になってからの事です。
それと理由はどうであれ、一年遅れの義務教育全過程終了という事が、その後の私の再就職活動に影響した事も、また、自分の生い立ちが本当に嫌で「学院から、ただ放り出されただけだ!」と、この世に生まれて来た事も、親を選べず生まれてきた事も、なにもかもが嫌になってしまった時期もあり・・・。
この事がその後の「こんな人生だからこそ」につながってゆきます。
こうして荒町 真樹生(鈴木 真樹生)は、「八条中学」を卒業という事で義務教育の全過程を終了し、社会に足を一歩踏み出したのでした。
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