まきおの『こんな人生だからこそ』

第19章 「まだ記していない学院生活での記憶」その2

はじめに

 「こんな人生だからこそ」のおよそ6年間の学院生活の記憶も、この章を最後に終わろうと思います。学院での様々な経験はその後の私の人生においても活かされており、仕事柄、教室の経営をはじめとしてスタッフを「育てる」という作業が今の私の主な仕事となっている訳ですが、様々な問題を処理してゆきながら、スタッフと共に私自身も勉強し、共に自分を「育てる」という作業をしています。

 その基となっているのが自分の「生い立ち」であったり、また、様々な数多くの「失敗」です。
 事ある毎に、学院での経験は役に立っています。そして活かされています。

 私の場合、このように気付いた時期が来るまでには随分と時間が掛かっています。だからと言って自分が完成された者となっている訳でもなく、それどころか、事あるごとに自分の未熟さを知り、自問自答しながら、ほぼ毎日の様に自分と闘う日々が続いています。いったいいつになったら休む事ができるのか?・・・。

 学院生活での書き残したい事は二つあります。
 その一つに私が中学3年の時に開催された行事ですが、正式な名称が「学院祭」だっのか「学園祭」だったのか?それともまったく違った名称だったのかは記憶が無いので分かりませんが、多分これだったのでは?という推測から、これからのお話では「学祭」と書かせていただきたいと思います。

 一つが学祭の時の事。もう一つが学院を退院する「卒業式」の時の事です。
 この二つを記して学院生活時代の「こんな人生だからこそ」を終わりにしたいと思います。
 先ずは学祭の記憶です。

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「学祭を前に」

 私は中学3年生。ある日の授業中に、学祭での出し物について私達のクラスからは「何を出し物にしようか?」と皆で話し合いがされました。
 ちなみに中学3年のクラスは一クラスしかありませんでしたが・・・。

 私の長い学院生活の経験から、過去の学祭を思い出しながらひらめいた事は「自分で台本を書こう!」でした。その真意はと言うと、「普段なかなか食べられない物をこの学祭を利用して食べられるようにしよう。」と、普通の生活をしている人からすれば非常に安易な考えですが・・・。

 自分が台本を書いて自作自演すれば、自分が望む物が食べられる!それも一度ばかりか、練習をする度にそれが食べられる!

 出し物を自分で考え、そして台本を書き、演技指導も自分がしなくてはならない事の苦労がある事は分かっていましたが、そんな苦労は「へ」とも想っていませんでした。と言うより、その事をあまり深くは考えてはいなかったと言った方が正しいかも知れません。

 その話し合いの授業時間が「ホームルームの時間」だったのか?なんの授業時間だったのかはまったく覚えていません。ただ一つ、その時の担当の先生はK先生という「美術を担当されていた先生」だったように今まで思っていました。が、いつの時の写真なのかは分かりませんが、今手元に残っている数少ない写真の中の一枚に、そこは学院で、何やら劇風の容姿で写っている自分の姿とその仲間。それに、なにかと「こんな人生だからこそ」に登場してきたF先生と一緒に写っている写真を見て、「きっとこの時だったのでは?」と思いますが、その写真に写っている自分の姿を見ても何も思いだせないのです。
 でも何故?K先生という美術を担当されていた先生の顔が記憶に残っているのか?・・・それが自分でも不思議に思うのですが・・・。

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「食べる欲のために」

 学祭での出し物は、思惑通りに私が台本を書く事となりました。
 「なにを食べたいか?」と言うことで頭がいっぱいで、いったいどんな出し物にするかなどは全く考えていませんでした。ですから台本を書き始めるまでには随分と時間が掛かりました。
 とにかく普段なかなか食べられない物をこの学祭を利用して!と言うことで、決めた食べ物は「果物」でした。
 ところがどんな果物がいいか?と考えても、果物の種類が分からないのです。

 普段の学院生活ではそんな沢山の種類の果物を口にしてはいませんでしたから、いくらイメージしても食べていない果物はイメージには出てきません。食べた時の無い高価な果物を、この時とばかりに考えてみたのですが、そんな高価な果物だと練習の度に絶対食べさせては貰えそうに無い。折角のこのチャンスにミカンぐらいじゃ不服。
 そんな事を考えましたねぇ〜

 必ずしも毎回の練習で食べさせて貰えるという保障は無い。
 それなら本番でだけでも良いから高価な果物にしてしまおうか!とか、贅沢にするなら果物なんてケチな事言わないでケーキにでもしてしまおうか?とか、でもそのお金って誰が出してくれるんだろう?とか、他人のフトコロ事情を考えたりもして随分と悩んだっけ・・・。
 そんな様々な事を考えながら決めた果物は「柿」でしたよ。

 柿ならそれほど高価でもないし、舞台の上を汚す心配もないと思ったのです。
 でも時期にもよりますが、柿は高価な果物の方ですよね。
 そんな事とも知らず、「柿なら練習の度に毎回食べられるかも?」という可能性と、「本番には山ほどの柿を皆で食べたい!」という欲をいっぱいに、ワクワクしながらなんとか柿を食べられる物語を考え始めましたよ。

 普段、なかなか食べられない果物にはとても飢えていましたから、台本をボツにされて柿を食べ損ねる訳にはいきません。じっくり時間を掛けて、なにがなんでも私が作る台本を採用して貰おうと書き上げる期限ギリギリまで引き伸ばしました。

 台本を書き上げるまでの経過は省略〜!

 どうにか期限までには台本を書き上げられていよいよ練習開始です。
 きっと担当の先生はもちろんの事、他の教職員の皆さんにはバレバレだったでしょうね!
 柿を食べたい一心の劇だった事がさぁ〜!へへへッ。

 そんな私の思惑を先生は知ってか知らずか、練習では本物の「柿」を一度も食べさせて貰える事ができずに「目に見えない柿」を食べながらの練習でした。

 こうして私の思惑はすっかり空振りに終わってしまった訳ですが、いったいどんな台本を書いたかもまったく記憶にありません。

 ただ一つ覚えているのは、学祭の本番当日、壇上の上で出演者全員輪になってあぐらをかき、その輪の中央に柿を置いて幕が上がるのを待っていた事。それと、幕が上がって直ぐに、私はその柿の一つを手に取り、それを右隣の生徒に差出て「やるか?・・・やらない!」と言うような感じの事を言った事。それが台本にあった台詞ではなかったように思いますが記憶が定かではありません。

 この物語の結末はまったく記憶に残っていません。
 たぶん皆で柿を食べられたとは思うのですが果たしてどうだったか・・・。

 こうして私が学院を卒業する最後の年の学祭に、柿を食べるために自分で台本を作り、劇を自作自演して柿を食べた思い出があります。たぶんその時の写真だと思うのですが、その写真を見て「こんな事もあったなぁ〜・・・」と思い出し、書き記しておきました。

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「学院生活最後の日を前に」

 さて、いよいよ学院生活最後の時が来ました。
 卒業式を明日に控えたその夜は、「いよいよこの学院とも明日でお別れだぁ!」と、学院を退院して「外」に出て行けるという安心。
 そして「何だか仲間とも明日でお別れかぁ〜・・・」と思うと、「夏には顔を出しに来なくちゃな!」という気持ちにかられちゃいましたね。

 学院生活最後の日の夜はとにかく眠る事など出来ませんでした。
 すっかり夜更しをしてしまって・・・。
 そりゃそうだぁよね!なにせ6年間もの間、学院にいた訳だから・・・。
 そうなって当たり前。
 とにかく眠れなかったぁ〜・・・。

 学院を出られて自由になれる嬉しさ。
 規則に縛られる事も、正座をさせられる事ももう無い。
 そしてバットで尻ビタをされる事も、・・・もう無い。

 これからは夜9時には寝なくてはいけない事もないし、いつまでTVを観ていても叱られる事もない自由。
 とにかく明日からは我が家でいつまででも寝ていられるし、強制も無い。

 でも外に出て行っても友達がいない。だから学院の卒業生と何とか連絡を取って再会したい!それに女性とも付き合いたい。知り合うのには何処に行けば一番手っ取り早いんだろうか?とか、そんな事ばかり考えて・・・。

 「社会は厳しいから・・・」と先生からいくら言われても、いったい何が厳しいのか知る由もなく、そんな事をいくら言われても想像すらできない。
 実際のところは気持ちがフワフワと宙に浮いてしまっていて、そんな話を「聞く耳持たず」と言った感じだっただろうか?

 いつもギャ〜ギャ〜と「小うるさい奥さん」ともおさらば!
 嬉しいなぁ〜嬉しいなぁ〜・・・と、そんな事ばかり思っていたっけ〜。

 不思議な事に、どんなに憎らしい相手でも、どんなに嫌な相手でも「明日は学院を出られる!」そう思うと、そんな気持ちも治まって憎らしくなくなったり嫌な相手で無くなってしまうのですから不思議なものです。

 「早く朝にならないかなぁ〜?」
 「早く窓の外が明るくならないかなぁ〜」
 「明日の朝になったら親が迎えに来てくれて学院を出れる!」
 「一番最初に出てしまいたいなぁ〜・・・。もしかして一番最後なんかにならないだろうなぁ?」
 「それどころか迎えが来なかったりなんかして!?」

 なんてね。「とにかく無事に何事もなく早く朝になってもらいたい!」と願い、眠れない長い一夜を過ごしました。
 気がついたら朝でしたから少しは寝ていたのでしょうねぇ。

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「卒業式の朝」

 卒業式の朝の空気のなんと清々しい事。
 その時の自分の顔って、きっと「喜色満面の笑み」を浮かべていたんだろうなぁ〜。おもいっきり「にやけた顔」して・・・。

 外はまだ3月半ばで風はまだ冷たいというのに調子こいて(調子にのって)、部屋の窓を開けて空を眺めて「にやけた顔」したっけ。・・・嬉しかったなぁ〜あの時。

 とにかく、「やったぁー!外に出られるぅ〜!自由だぁ!」その思いがいっぱいで、約6年間の大沼学院生活での辛かった事も、痛かった事も、なにもかもが気持ちの中では「もう過ぎた事」となっていました。

 そんな事はもうどうでもいいや!って、思える自分が存在した事。
 そして、「自由になれる!」と言う開放感と夢と希望でいっぱいでした。

 寮での最後の掃除と最後の朝食を摂って、あとは卒業式の時間が来るのを今か今かと待っている。その時の時間の経つのが長い事長い事。

 学院を去るその時を、心弾ませながら待っている自分の気持ちに「落ち着け!落ち着け!」と言い聞かせて時を待っていました。

 そう考えるとなんだか全てが懐かしくなっちゃってね〜・・・。
 「遊びに来るから元気で居れよ!先生や奥さんの言う事をちゃんと聞いて、迷惑かけない様にしなきゃなぁ!」って、後輩のW君にかました(言った)ぐらいにして・・・。
 懐かしい思い出です。

 折角いい感じになっている時になんですが、この卒業式の朝に、「それってあり?マジ!」っていう出来事があったのです。実はその事を記しておきたかったのです。

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「それってあり!?」

 もう直ぐ卒業式の時間という時の事です。
 学院や寮の規則上、本人に渡す事が出来なかった生徒の私物に関しては、その生徒が学院を出てゆく時まで寮長先生が保管し、預かっているものなのですが、その保管されている物の中に、寮長先生が土日となると使っていた、私が正月帰省の時に妹から譲って貰った短波放送(競馬中継)も聞けるラジカセもその一つでした。

 それと修学旅行で札幌に立ち寄った際に、オヤジが札幌駅のステーションデパートで買ってくれたレーシングカーセット。長い事学院に居たから、私の私物や没収されて保管されていた物は他にもあるでしょうが、その他の物の記憶はありません。この二つの記憶しかありません。

 そんな私物を卒業式のこの日に返して貰ったのですが、その時は学院を出て行ける事で私は舞い上がっていて忘れていましたが、ラジカセを返して貰う事をすっかり忘れていました。この事は後に思い出したものです。

 卒業してから思い出す度に、「学院に遊びに行った時には返してもらおう。」と思っていましたが忘れてしまっていました。
 また、事ある毎に思い出しては、直ぐに寮長先生に電話一本でも掛ければよかったのでしょうが、「先生もきっと使っていたいだろうから、・・・まっいいかぁ〜!」てな感じで、ラジカセの事は諦めていました。

 それは良いとして、「それってありかい!?」っていう事ですが、一瞬、「冗談じゃない!自分さえまだ一度も寮では開けた事が無いものを、なんで寮に置いて行かなきゃならないんだぁ!ましていつでも使える様に出してしまうなんて!」と腹が立った事がありました。

 それは修学旅行で札幌に立ち寄った際に、オヤジが札幌駅のステーションデパートで買ってくれた高価なレーシングカーセットです。

 そのレーシングカーセットはこの卒業式の日まで、寮の廊下の奥に在る四畳半くらいの部屋にず〜っと保管されていたのですが、それを卒業式の日に奥さんが出してきてくれたのです。
 いったんは私に返してくれたのです。が、返してくれたのはいいのですが手渡すなり、「これ、他の生徒に置いていってあげなさいよ!先輩なんだからぁ!後輩たち喜ぶよ!ネッ、置いていってくれたら嬉しいよね!」と、W君に聞くんです。そりゃ〜嬉しいに決まってるじゃないですかねぇ〜。
 よれよりもなによりも普段は出せないからと使わせず、ず〜っと保管していたくせになんで自分達が卒業するとなったらそれが許される様になってしまうのか!?と、あれには本当に驚きました。それに反抗する事も出来ないじゃないですか。

 正直、ある意味、「俺達が色々な意味で奥さんの生きがいだったのかい?」て、思いましたよ。それに、「俺達が今日で居なくなるから、後はもうどうでも良いのかい?」とも・・・。

 その時本当にむかつきましたね。でも、「自分はこれから外に出られる訳だから買う事はできるし、後輩達がそれで喜ぶなら・・・まっ、いいかぁ〜。」と、持って帰りたかったレーシングカーセットを置いて来てしまいました。

 直ぐさまW君をはじめ、他の後輩がその箱を開けて中からレースコースを取り出して組み立て始めました。私も一緒になって組み立て始めましたがね。

 そして組み立てたコースに車を乗せ、走らせて遊ぶ事が出来たのはほんの少しの時間でした。卒業式が始まるために学校へ行かなくてはならなかったからです。

 きちんと片付けて学校に向かうならまだしも、卒業式が終わって帰ってきてからでも遊べるという事で部屋の隅にそのまま置く事をも奥さんは黙認されて・・・。

 あの時は本当に腹が立ちましたねぇ〜・・・。「こうして使われたら俺が遊びに来た時には、もう壊れて無くなっているんだろうな〜」と思っていました。のちに学院に遊びに来た時には、矢張りその姿形はありませんでしたよ。

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「所詮教師も人の子」

 綺麗にする事に関してはどの寮よりもうるさかった奥さんです。
 確かに寮長先生もその奥さんも厳しい方々でしたが、私達の寮の床は他のどの寮の床よりも綺麗であった事に誇りを持っていましたし、そんな気持ちを育ててくれたのも寮長先生であり、奥さんだったのです。その教育は今でも活かされています。

 人は皆、勇気や希望を失った時。所謂「自分を見失った時」にこそ本当の自分、真の人間性が顔を覗かせるのではないでしょうか?自分の経験からそんな風に感じます。

 正直、本当に思うがまま、感じたがままに書きますが、私達、特に私は何かにつけてどの先生からも、何かとターゲットにされていた様に感じます。言葉は悪いかも知れませんが「虐める者・ウサを晴らす弱い相手」が居なくなるから、またはその生きがいが無くなってしまうから後はもうどうでも良いのか?と思いました。

 こんな事を考える自分。またそう思える私に問題があるのかも知れません。ですが、正直、当時の私には本当にそう思えたのです。

 約6年間。今までの事は本当に心ある「教育の一環」だったのか?と疑問を抱き、ほんのその一瞬で何かが私の心の中から消えて無くなってしまいました。
 ほんの一瞬にです。
 そんな事があったのです。

 もし、その時私が感じ、そして思った事が本当なら、とても寂しいことです。
 現在私はダンススクールを経営していますが、その時の自分が受けた経験が役に立っています。
 出来る者も出来ない者も、差別せず、また区別無く接して平等にいられる様にと努力しています。それどころか、自分の身内にはより厳しく。他人に優しくと言った精神です。

 自分の世間体など気にしていません。自分の事よりスタッフの事。
 スタッフが生徒さん達に好かれ輝いていられる事を先ず考えます。と言うより、そう考えるように心掛けて行動しています。

 その為に自分は陰にでも、踏み台にでもなるつもりですが、そんな姿は普段は光の当たらない地味な努力。
 ですが私はそれで良いと思っています。それが経営者である者の基本精神だと信じているからです。相手の「精神」にもよりますが・・・。

 叩いて響く太鼓ならいいのですが、いくら叩いても叩いても、張っている皮を破れるほどに叩いても、それを受け止めている者が、それを両手でしっかりと受け止めようと、両足で大地にしっかりと踏ん張って太鼓を受け止めてくれている者でなければ・・・。
 そうでもなければ辛さや苦しさを共感する事は果たして出来るでしょうか?

 受け止める者の気持ちが「休め!」ポーズをとりながら、微かに太鼓を押さえ、「さぁー!さぁー!ハッハァー!」と声を張り上げてばかりいるのでは、叩く者の辛さも苦しさも分かる筈もありませんし共感など出来る筈もないでしょう・・・。
 悲しいかな「笑面夜叉」的みたいな付き合いがあっちにもこっちにも・・・。

 寮内の風景の一つに、一番手前の寝室の壁に「人に劣るものは陰で努力せよ」と書かれた額が掲げられてあったのを今でもしっかりと記憶しています。が、それは寮長先生が書かれた物で、この格言は今日までの私の支えになっているのは確かです。特に「陰」が気になっていましてねぇ〜・・・。「かげ」って人の影の「影」じゃないの?それを「陰」って書くのにはなんだか深い意味がありそうだ!と思い、辞典で調べた覚えがあります。

 くじけそうになった時、自分に負けそうになった時、なにかとこの格言に問う事がありました。
 日の当たらないところで頑張っていてもただ辛い・・・。
 誰にもこの辛さは分かっては貰えない・・・。
 寂しい・・・。

 そんな事を思いながら「きっとそれが実る時がくるんだよな!?」と、だから他人に劣る者は何倍も何倍も「陰」の努力をしないと一人前にならないんだよな!?と・・・。
 これについて話せば長くなってしまします。いつか機会があれば、嫌でも書く時が来ると思います。

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「卒業式」

 卒業式の事は殆んどまったく覚えていません。自分の卒業式の時の事は覚えておらず、一昨年の卒業式の時に、「再来年かぁ〜卒業できるのはぁ〜・・・長いなぁ〜」と在籍生徒の席から卒業してゆく者達の姿を見ながら思っていた事を覚えていますが、自分の卒業式の事はまったく、全然と言っていいほど覚えていません。

 でも唯一、それを証明する写真が一枚残っているのです。
 その写真の中央に素敵な着物を着て姿勢良く腰掛けている人が私の実の母ですが、その時の記憶が私にはまったく無いのです。

 その写真に写っている風景は、間違いなく学院の講堂です。
 なんでこの時の母の記憶が消えてしまっているのか?自分でも理解不能です。
 そんな写真まであるにも拘らず、いくらこの写真を見ても思い出せないのです・・・。

 母も同席した卒業式。学院を去る時がきたのです。
 「なんでそんな事忘れるの!?」って自分でもそう思いますが、記憶に無いものは書けません。無理に思い出そうとすると、自分でも気付かぬうちに想像が膨らみ、いつしかそれが私にとっては真実となってしまうのでは?という事を恐れるが故に、無理に思い出そうとはしません。

 憶えているものだけ、記憶に残っているものだけを書いていますから、こうして「こんな人生だからこそ」の1章から19章に渡って、つじつまが合わない箇所がいくつもあるやも知れません。が、その不自然さを自ら感じつつも、つじつまが合うように書きつなぐ事はあえてしていませんので不自然さについてはご勘弁下さい。

 理由にはなりませんが、生まれてから今日まであまりにも沢山の事があり過ぎて、一つ一つの事をハッキリと覚えていれるほど記憶力は良い方ではありませんからご勘弁下さい。

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「最後に」

 約6年間の学院生活。教護院という施設で育ててもらった訳ですが、今こうして居られるのもそういった学院生活のお陰である事に変わりはないのです。

 昔は「教護院」。その言葉の響きが悪いからと「少年育成・・・」と、いくら名前を変えたところで、「その中身」そのものが変わらなければ・・・と、私はそう思います。

 響きが悪いからと名称を変え、見た目が悪いからと小奇麗にしたところで、中味が変わる訳じゃありませんし人格が磨かれる訳でもありません。
 見た目を綺麗にする事はとても大切ですし、とても必要な事です。ですがそれ以上に、失ってはならない物があります。

 中味の腐ったものにいくら立派な衣を着せ着飾った所で、所詮いつかは衣も腐ってしまいボロも出るものです。
 それを隠し通そうと一生そうして生きてゆく事が果たして幸せなのでしょうか?
 価値観の違いでしょうが・・・。
 果たして、自らそんな生き方を本当に望んでいるのだろうか?

 「それが当たり前の世の中だろ!?」「何処だって誰だってそうだろ!?」と返す相手に立ち向かって反論したところで自分にはプラスにはならない。

 衣を必死に剥がされまいと使うその労は気苦労なんかでは無く、実は自らが知らず知らずのうちに望んでしまっているもので、なるようにしてなっているだけの事。
 角度を変えて考えてみると、「そうなって当たり前」と感じるものも幾つもあるのではないでしょうか?

 社会が、大人が腐っているから、若者が腐って当たり前。
 だからと言ってそれに、「そうだ!そうだ!」と奇声を上げて盛り上がる若者も困り者。

 そんな若者を心に響く真の拳(こぶし)をもって叩く事の出来る大人が居ない、なさけなさ。
 それどころか、「それは教育では無い!」と許さないとする法律。そんな事を認めている大人の一人に私も共に居るのだから、・・・なさけない。

 私は、「自分は自分!」と貫いている部分があります。それもこれも、学院での体験が少なからず役に立っているからです。

 いつ何処にいても、また、事ある度に、必要に応じて自分の意思とは無関係に脳が勝手にその体験を活用しているみたいです。とても便利な「経験辞典」みたいになっています。

 人が成長する過程において「体験」「経験」どちらにも大した違いはありませんが、これに勝るものは私には無いと感じています。

 これで「こんな人生だからこそ」の学院時代編とも言うべき約6年間の学院生活での記しておきたかった記憶を書きましたが、若者の諸君には、とにかく頑張ってもらいたいです。

 大人の善い所も悪い処もよ〜く目を見開いてしっかりと見て、「自分が大人になったらあんな大人には絶対にならない!」「自分はこんな大人にならなければ!」と、ハッキリと自覚を持って将来を見つめる事が出来る「大人予備軍」になっていただきたいと思います。

 その為にも、目をしっかりと大きく見開いて、今の大人達を、今の社会をよ〜く観察して、「素晴らしい大人」「素晴らしい社会」を貴方たちの手で築いて貰いたいと、何もせず、ただ無責任に言うだけの一人の、学識も教養も無い、歳だけは大人の荒町真樹生47才が君達若者に願う事です。

 そして君達が大人になり、いずれ結婚して子供が出来たなら、子供としっかり膝を突合せて向かい合い、自分の経験を通して子供と語り合い、話し合う。

 焦らずに時間を掛けながら一つずつ教え、そして子供自らが自分の意思で、心育て、成長してゆこうとする為に、貴方にその「添え木」となってあげて欲しいと願うのです。
 その為には、君達一人一人が「多くの経験」を今、しておかなくてはならないと思うのです。
いずれ子を持ち親となる君達にそう願います。

 「親が無くても子は育つ」というその格言を、私は、決して実際に「親が居なくても」ではないと解釈しています。

 物をあげる事が優しさなんかじゃない。
 叱らないでいる事が優しさなんかじゃない。

 子供たちの真の心は、本気になって叱ってくれる大人。本気になって対等に人として扱い、また、自分と真正面から向かい合ってくれる本当の大人を待っているのではないだろうか?
それが親でなくてはならないのでは?と、思います。

 「笑面夜叉」的人間社会がはびこるこの今の時代だからこそ、その事に「気付いている」人が理屈抜きで、あまりに少ないだけなのではないだろうか?と思っています。
 自分の体験や環境の経験からそう思います。

 私にとっての今の母の存在は、私の為の「心の薬」みたいです。
 なんでもかんでも欲しがる子供に、「物質的なものを与える事が真の優しさなんかじゃない!」その事にどれだけの大人たちが果たして気付いているだろうか?・・・

 これで学院生活時代の「こんな人生だからこそ」を書き終えます。
 その後の人生も、けして人様の前にさらけ出せる「生い立ち」ではありませんが、その半生が皆さんのお目にふれる事で、何かを感じ、何かに気付く事があればと思います。

 格言に、「人の振り見て我が振り直せ」という言葉がありますが、私の書く、この「こんな人生だからこそ」を見ていただき、経験せずとも理解してもらえたなら幸いです。

 それではこれで、「こんな人生だからこそ」学院編を終わらせていただきます。
これまで見てくださいました皆様に心より感謝いたします。

ありがとうございました。

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