第18章 「まだ記していない学院生活での記憶」その1
はじめに
まもなく「こんな人生だからこそ」の少年時代(学院編)が終わろうとしている。 小学3年生の冬に入ってから中学3年生の卒業までの約6年間の学院生活。
これまでの章でまだ記していない幾つかの記憶を、二つの章に記して学院編を終わりにしたいと思う。
あっちの親からこっちの親へと、「行ったり来たり」の繰り返し。
児童相談所と言うところが幼少の頃の私にとっては一番住みやすく、そして「一番楽しい所と感じていた」と、・・・そう思う。
毎日浴びる様に焼酎のビール割り(爆弾)を飲んでは暴れ、殴る蹴るを繰り返すオヤジ。「ここに居たら殺される!」と思っていたあの環境から逃げ出したい一心で悪さをしては通った児童相談所。そしてそこは、私にとって「この上なく安心して眠れる唯一の場所」。そこが児童相談所。
しかし、そんな児童相談所と親元への「行ったり来たりの繰り返し」はいつまでも続ける事ができず、小学3年生の時に自らが選択した場所が「大沼学院」。
その学院生活で、未だ書き記していない記憶を二つの章に記して終わりにしようと思うが、今回はその一つを書き残しておこう・・・
「嫌な思い出も忘れて感謝」
中3の夏。いや春から夏にかけての5月か6月頃の事だっただろうか?少年野球地区予選が函館で開催された時の事だ。
その大会に母が札幌から応援に駆けつけてくれた。もちろん母が応援に来てくれるという話は知らされてもいなかったし、母と大会当日に会ってはじめて知った事。
どの親も我が子の晴れ舞台。応援に行けるものならどの親も応援に駆けつけたくて仕方ない筈。それが親だろう・・・と、そう思う。
学院に入ってからこの大会までには、毎年同じ行事(野球大会)が繰り返されていた。けれど母が来てくれたのはこの時がはじめて。
こうして今回はじめて母が応援に来れたのは、思うに、学院のご配慮によって母に知らせてくれたのだろうと思っている。もちろん母が勝手に来れる訳ではないからそうだろう。
それより何より、学院の「母に知らせて来させるようにしてあげたい。」というその気持ちと、許可してくれた院長先生をはじめ寮長先生や学院の各諸先生方に感謝の言葉を言っておきたい。
この事に気付いたのは、社会に出てからず〜っと後の事で、真実は分かりませんが私はそう思い深く感謝しています。だから、在籍当事はあんなに嫌だった寮や学院が、今も、そしてこれから先も、懐かしくそして学院が好きでいられるでしょう。・・・悔しいけど。
いくら中学3年生で来年は卒業だからと言っても、本当に優しさや思いやりがなければそんな配慮はしてはくれないと私は思う。それに道庁の管理下にあるそんな施設ですから、なんでも一職員の判断では勝手には出来ないでしょうし、殆どの事は許可が必要な筈。
そんな中で、あのような配慮をしてくれた事に深く感謝しています。そして、母と息子のいい思い出を作れた事にも感謝しています。
「思いもよらない焦りまくりの母との再会」 その大会当日、試合前に球場の外で練習をしている最中に突然母が現れたのです。ビックリしたのなんのって!なんでここに居るの?マズイよ!勝手にここに来ては!!
それ程の驚きと、いくら親子でも勝手にこんなところに来て話しかけては!先ずは先生に報告しなきゃ!と、驚きと嬉しさと焦り。とにかく焦りまくりました。
それもその筈です。もう少しで学院を出られるのだから、へたな事件は起こせない!
卒業までになにか事件でも起こしたものなら学院から他の施設にまわされてシャバに出られなくなってしまう!ヤバいよ!!そんな焦りでいっぱいでした。母を隠せるものなら隠してしまいたい思いでしたよ。この時も着物着て来てたっけぇ〜・・・。
学院生活で身についた習慣。「行事で学院の外に出たときは、一般の人と話をしてはいけない!」みたいなそんな習慣が自然に身についていて、母に会えて嬉しいというよりもそのことにめちゃくちゃ動揺していました。
監督も先生も誰も話してはくれませんでしたが、後で母に聞いたら「先生が知らせてくれた」と言っていました。「真樹生君、学院生活最後の野球大会だからもしよければ見に来てあげてやってくださいませんか?」って連絡があったそうです。
いつもは厳しくて、そして誰よりも一番私を叱っていた先生がそんな事をしてくれたなんて・・・。その時は想いもしていませんでした。
なかなか粋な事をしてくれたものです。また、よく学院も許可を出してくれたものだと、今はその配慮に本当に感謝しています。そして母と息子とのいくつかある少ない「心の思い出アルバム」に大切な思い出として残す事ができた事えも、学院には感謝しています。
どんなに憎い相手でも、どんなに沢山の嫌な思い出が残っていようとも、こんな事がたった一つでもあるから許せるんですよねぇ〜・・・。
そう考えると、こうして思える自分は不幸な人生だった訳じゃなく、それどころか「幸せなんだ!」と、そう思います。
「母の姿で緊張しまくり」
私はピッチャー候補として日々練習をしていました。が、どの大会でも一度もマウンドに立つ事がありませんでした。一応リリーフピッチャーとして存在はあったと思うのですが、監督やコーチの頭の中にはピッチャーとしての私は存在していなかったのか?それを認めたくなかったのか?そうそう、よく「ホーガン投げみたいだぁ。」と言われていましたねぇ〜。自分ではまったくそれが理解できていませんでしたが、幼い頃に木から落ちて骨折した右腕(既にその時には右肘の関節から先が下へ曲がってついていました。)を振る軌道がそう見えていたんでしょうねぇ。それで変化球を投げた時に異常に肘に痛みが走っていたのは、そんな右腕が原因だったのでしょうねぇ〜・・・。 この大会での私のポジションはレフトというポジションでした。
母はバックネット裏のベンチに腰掛けて応援してくれていました。私からもよく見えるところで・・・。
その母の姿が常に目に入って、なんだかとっても緊張していてねぇ〜・・・。
どの選手にも負けないくらいバッティングセンスも守備センスも良かったと自負していますが・・・。
まず自分がエラーをするなどと、心配した時などありませんでした。が、この時ばかりはカッコいい処を見せようとする事よりも、エラーしないようにしなきゃ!と言う不安でドキドキものでしたよ。そんな思いなんて普段した時ありませんでした。それどころか普段は「カッコいいところ見せたるわぁ!」てなもんでしたから・・・
「おい!大丈夫かぁ?」と周りが不安がるところでは妙に人の何倍も気の強い処を持っていながら、なぜかしら「ここ!」という処が異常に気が弱くて、自分でも「なんでこんなにバランスが悪いんだろう?・・・」と、それは今でも思います。小さい頃からそうでした。
「思いは全国大会出場!」
第一試合目は余裕の1勝でした。自分達が想像していたより遥かに楽に勝てた試合でした。
その日の私達の試合は1試合だけでしたが、母も最後まで応援してくれていました。その日の試合後の行動は母の事を含めて殆ど記憶に残っていません。
唯一、その日の夜の事で、宿泊していた函館市内の旅館の中庭で私も含めて殆どの選手が外で素振りの練習をした記憶だけです。その日の「母のその後」は記憶にありません。
それに試合終了後、母と一言二言でも会話をしたのかさえも記憶にはありません。
翌日の対戦相手は、殆ど毎年北海道代表として全国大会に進むH学院です。
北海道では優勝候補の強いチームでした。出来れば決勝までは対戦相手として組みたくない相手でした。それほど強いチームという定評がありました。
そんなH学院が明日の対戦相手です。みんな今日の試合みたいな訳にはいかないと思っていましたし、正直、勝てる相手ではないと思っていました。
それは私たち選手をはじめ、監督も、応援してくれている学院の仲間達やどの先生達もそう想っていたと思います。でも、だからと言って私達は諦める訳にはいきません。一試合でも勝って学院を一日でも離れて居たいし、寮ではなく旅館に宿泊して居たい。
決勝に残れば全国大会にも行ける。そしたら北海道を離れ、初めて飛行機にも乗れるし何日も学院を離れて自由でいれるという安易ですがそんな思いがメチャクチャ強かったのです。
動機は不純でしたが「とにかく、絶対全国大会に行くぞ!それには明日のH学院に勝てば決勝へは間違いなし!」と思っていましたから必死で素振りの練習をしましたねぇ〜。
意気投合して皆でなにかに頑張っている姿って本当に気持ちがいいんだよねぇ〜・・・。
「母らしい優しさ」
その日の朝です。いよいよH学園との対戦です。朝一だったと思いますが、2試合目だったかなぁ〜?
この日も球場入りする前に球場の横で軽く練習をしていました。そのところに母がまた現れました。一晩何処に宿泊したのかという事が気がかりでいた事を思い出します。
母はみんなに「これで元気つけて頑張って〜!」って中学生の私達に「栄養ドリンク剤」を沢山差し入れしてくれました。2ケースだったと思います。
母の気持ちも分かるのですが、「おいおい、栄養ドリンクなんて学院の生徒達なんか誰も飲まないよ〜。栄養ドリンクなんかじゃなくてスポーツドリンクか冷たい水の方がず〜っと良かったのにぃ〜・・・。母さんらしいわぁ〜」と思った事も覚えていますね〜。
ホント!母らしいです。
学院を卒業してから何年も後になってから聞いた話ですが、母はこの大会では少し離れていますが同じ函館管内に在る母の実家「砂原(さわら)」に泊まっていたそうです。
そして、そこからタクシーを使って行き帰りしていたそうですが、相当に交通費がかかったんじゃないでしょうか?これも母らしいですが・・・。
いよいよ試合開始です。試合が開始してみるとどうでしょう、開始早々から私達の下位打線の選手が打って点を入れたのです。ちなみに私は上位打線でしたがその時に限って、まったくいい所なしでした。本番に弱いタイプ?
先取点を捕られた事に相手チームにはかなりの動揺がみられ、応援団にもその動揺は隠せず「どよめき」さえ起こっていました。
私達を応援している筈の学院の先生方も、そんな動揺しているH学院の選手達に声援を贈ったぐらいです。私達はと言うと、「おい!今回のH学院、想ったほど強くないぞ!このままもしかしたら勝てるかも!?」とナメた会話を交わしたぐらいで余裕さえ感じていました。
しかし人生それほど甘くない!その通り。
突然、うちのピッチャーが崩れ始めたのです。そのキッカケは分かりません。
展開に特別な出来事があったという記憶もないですが・・・。
突然崩れ始めたのです。
それが尾を引き、「これほど崩れ始めてしまっているのになんでピッチャー交代させないのだろう?」と何人かでヒソヒソと話しましたが、その時に思い出したのがリトルリーグの大会の時にピッチャー交代をさせなかった件です。
私だけが感じた事なのかも知れませんが、「監督は勝って全国大会に行きたくはないのでは?」と思いました。こう感じたのは果たして私だけだっただろうか?・・・
「油断していて怒鳴られて」
何回までそんな思いが続いただろうか?うちのピッチャーの崩れから、次第にフォアボールでランナーが出塁しはじめました。
この試合でレフトにはまともな打球は一度も飛んでこなかったと記憶しています。
ランナーは二塁。私は監督に対する不信感とバックネット裏で応援してくれている母の姿が気にしながら守備についていました。そこへ突然サードの頭を越える打球が飛んできたのです。その打球は私にとっては不意を尽かれた突然の事のように思えました。
二塁にいたランナーがタッチアップをしようとするするその様子を見て私は、「あのやろう〜!サードに盗塁なんか俺からはできる訳ないだろう!」と、そうはさせまいと打球を捕りに前進。ところがどうだろう、おもいっきりのトンネルです。「アッ!ヤバ!」
その時の恥ずかしい事ってありゃしない。「クッソー!あのランナーはホームを捕りに行くな!」と思っていましたから先ずはランナーに「ホームを狙える!」と思わせようと、若干ゆっくりと捕球。「絶対にホームで刺せる!」と思うタイミングでバックホームしましたが、結局は間に合わず刺せませんでした。
エラーをしたミスのその借りはカッコいいところ見せて、「結果オーライ」で返してやる!と思い、若干ですがゆっくりと捕球していたのです。
ところがその動作に、「なにやってんだぁ〜!」と言う大きな怒鳴り声。
その声はなんと!まいったねぇ〜あれには。母の声でしたから・・・。
私のエラーで1点の追加を許してしまいましたが、でも一つ記憶が定かでない事があって、そのエラーは初戦の時のではなかっただろうか?・・・
試合終了時にホームグランド前に並んで「ありがとうございましたぁー!」と相手チームと挨拶を交わした後、ベンチに帰り際に「鈴木!お前の母さんお前がエラーして怒鳴ってたぞ!凄いなぁ〜?」って同僚に言われ、「勝ったからいいべぇ!」って交わした会話も記憶にあるのですが・・・なにがなにやら記憶が所々ぶっ飛んでいて・・・。
母には、「いつもはあんなんじゃないんだよ。」と言ったところで信じてもらえそうもないですよね。
この大会では母に良い所を見せる事は全く出来ませんでした。それどころか、すっかり情けない処を見せてしまいました。ヘヘへッ。
「記憶に残るあの時の重い空気はいったい?」
不幸にもこの日の対戦は、回が進むにつれ天気がどんどんと悪くなってゆきました。試合途中から雨が降り始めましたが、これも運なのか?
結局この日のその後の試合は全て中止となったほどのどしゃ降りの雨となりました。
私達のチームが勝っている時に降ってくれたなら・・・。
勝っている時でなくてもいい。せめて朝からどしゃ降りだったなら試合が一日伸びて、明日また最初からと言うことでやり直し。「折角勝っていたけどそれでもいいから何とかならないだろうか?」と、帰りのバスの中でどしゃ降りの雨を見ながら思っていた記憶。
どうしてこうツキが無いんだろう?
そんな事を皆も思っていたのか、乗り込んだバスの中の空気はとても重く、監督も何をどう話したらいいのやら・・・。
車内はとてもとても空気が重く、どの選手も後味が悪くて泣くに泣けない雰囲気でした。
アッ!思い出しました。
その原因は、試合が最後の回まで行かずに雨の為に中止!
でも回は一応勝敗を決められる回までを消化していた筈です。
雨のために審判が試合終了の回を協議するまでは同点だったと思います。
その次の回。次第に雨足も強くなり始めてきましたが、この試合をこの回で中止にすれば後日再試合をしなくてはなりませんでした。ですがそれだと大会の進行上、翌日からの進行に影響がある事から、このどしゃ降りの雨の中でこの回とあと1回の裏表を行って試合成立とする事となった筈です。
この回の表に私達のチームが1点を取り損ね、裏に相手チームに点を取られて当学院の負けとなって試合終了となったかと思います。
ですが、この回の1点取り損ねたという事が実は後味の悪いものとなったのです。
この回の表に私達のチームが「1点取り損ねた」と言うのはホームベース上で起きたクロスプレーで、ベンチから見る限りでは明らかなノータッチだったのですが判定は「タッチアウト!」
その時戻ってきた選手がベンチに腰掛けるなり「タッチされてないよ!ノータッチだよ!」と、こぼした。そのことに、「だろーぅ!だったら審判員にハッキリと抗議して来い!」と他の選手から言われ、監督も今の審判は腑に落ちないという顔をしているのですが、結局はその選手も、また監督も抗議には行かなかったのです。
あの時ノータッチが認められて「セーフ」と判定されていたら、確かうちのチームが1点勝ち越しで勝利していたと思います。多分・・・。
と言うのも私のその時の記憶には、他にこの様な記憶もあるのです。
私達が守りでいて、相手チームのランナーがホームベースに走り込んだのですが、タイミングもアウト。キャッチャーもタッチもしています。その時ランナーはタッチをかわそうと少し外回りをして回り込んでホームベースに走りこんだので、「ノータッチ・セーフ!」と判定されたのですが、その光景をレフトで守っていた私は審判員とはまったく正反対のよく見える角度にいたので判りましたがタッチはしていました。その事についてもめた記憶もあるのです。
ですから同じホームベース上で、私達のチームが攻撃している回にランナーがタッチされていないから「セーフ」。なのを「アウト!」と判定されて1得点とならなくて、結果・・・。という記憶と、守りについていて相手チームのランナーにタッチをして刺しているのに「ノータッチ・セーフ」と判定されて、結果・・・。と言う記憶が二つあるのです。
それがこの時の試合では両方があった?
それとも、一つが前の日の試合であったことで、もう一つがこの時の試合であった事?という感じで、どっちがどうだったか不明確な記憶なのです。
このどちらかがあって、勝っていたかも知れないこの試合が結局は負けとなり、後味の悪い、悔いてもどうする事もできない嫌な気分で球場を去った事を覚えています。
こうして雨のために試合終了となった訳ですが、実に後味の悪い試合でした。
そんな事があって帰りの車内の空気がメチャ重かったのです。
今年その時の仲間と会う機会がありますから、その時のことを聞いてみようと思います。
それともう一つ思い出しました。
うちのピッチャーが崩れ始めた原因を・・・。
誰が見ても明らかな「ストライク」でありながらも審判が「ボール!」と採る。
その事に監督もはじめ私達選手全員が納得いかず、「H校が優勝候補で、まして函館の学院。それだからってあまりに酷い!」と思ったことも・・・。
そんな審判に、選手皆は口には出せずに悔しそうな顔をして監督に訴えるんです。「あんまりだぁ!監督、抗議してください!」とね。そんな選手の気持ちは監督も分かっていたと思いますが、でも監督は抗議しませんでした。
そんな事がありました。嫌な事を思い出してしまいましたぁ・・・。
「ジャッジマンの審判の重さと責任の重さ」
世の中、こんな事は当たり前の様に、いつの世も、いつの時代にも、よくあることです。本当によくあることで、当たり前の様に何処でも行われています。ただ人はそれを罪悪、罪と知っているからこそ、永遠に隠し通し、あの世まで持っていってしまう。
それが健全であるべきスポーツの世界にだってある。ただそれを知っていて見て見ぬ振り、聞かぬ振り。触らぬ神にタタリ無し。
これほど科学が進歩発展しているこの時代に、ジャッジの審判が絶対という判定を基準とし、採用しているスポーツも未だにある。
ジャッジマンだって所詮は人間。意図的ではないにしても、誤りや間違いは誰でも犯す。
その審判が本当に正しいか否かを、単純ではあるけれどビデオというモノを使いそれを見て審判が覆ったとしても、最初に下した審判が間違いであったとしても果たして本当にそれでジャッジマンの審判員としての信頼や人格が失われるものだろうか?私はそうではないと思う。
むしろ最初に下した審判がビデオを見て間違いだったと解ったなら、正々堂々とその間違いを認め正しく訂正をした審判を下せる者こそが「真のジャッジマン」ではないだろうか?
物も人も、それらを審査・審判するジャッジマンにとってどれ程の責任があるのかを心底自覚していなければ、そこに「誇り」は生まれる事もなく、真の信頼を得る事は出来ないのではないだろうか?「その人の人格」とは鏡に写る自分の姿や、外に写る姿ではない。
心に存在するもう一人の自分。鏡に映るその顔の奥深くに存在する自分こそが本当の自分であり、その者こそが「人格」を保持しているのではないだろうか?
母とは、この大会では殆ど親と子らしい会話をする事は出来なかった。
バックネット裏のベンチに座り、我が子と我が子が関わるチームや選手を心から声援してくれていたあの時の母の姿。
あれから何十年も経った今、その時の事を笑って母と話す事が出来ることに感謝しなくてはならないだろう。そして、その思い出を作ってくれた学院に感謝しなくてはならないだろう・・・。
学院生活6年間での「こんな人生だからこそ」も、残すところあと一章。
確かに学院を卒業するまでに様々な事があったとは言え多くの記憶が無くなっているにも関わらず、オンギャーと生まれてからこれまでの「数少ない記憶」を書くためにこれほどの月日がかかるとは・・・。
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