まきおの『こんな人生だからこそ』

第17章 「右足複雑骨折の理由」最終編

はじめに

 いくら「今回の掲載は!」と決めて取り掛かっても、いざ書きはじめたら次から次へと閉ざされていた記憶が、まるでおもちゃ箱をひっくり返したように出てきてしまって、なかなか予定通りには進みません。
 こうして「こんな人生だからこそ」を書かなければ、もしかしたら永遠に思い出すことのなかった出来事もあったのに・・・。そして、そのまま記憶から消えて無くなってしまえばよかった記憶もあったのに・・・。

 そうなりながらも何故書き続けるのか?
 そして、それに何の意味があるのか?

 それは、「自分への戒め」のようなものです。
 過ちも失敗も、今ではすべて「自分への肥やし」になっている様に感じているからです。
 「過ぎた事だから」と終わりにしてしまうのはたやすい事です。
 こうして言うのは簡単ですが、矢張り心には深く刻まれてしまいます。

 その過ちや失敗から、「あ〜だの、こ〜だの」と振り返り、それらの過ちや失敗を活かす事を模索して又頑張ろうとする。しかし、その度に落ち込んで悩むのです。でも、また更なる過ちや失敗をしながらもなんとか前向きに進もうとするその繰り返しの私です。

 右足複雑骨折に関わる事を書き続けるうちに忘れかけていた事を思い出し、その一つには「実の父親」の事があります。
 この「こんな人生だからこそ」には実の母親と育てのオヤジは登場してきますが、実の父親との事は全く出てきていません。と言うより、父親との思い出が殆ど無いのです。

 育ての親父(オヤジ)。「寄り道 昔は鬼のように怖かった親爺が、今では観音様のよう」に登場するオヤジは現在も「後志リハビリセンター」にて療養していますが、オヤジとの約束(施設に訪問してダンスを披露する事)を昨年果たす事ができました。
 その訪問を地元の新聞社などが取り上げてくださいまして記事にも載りましたが、ありがたいことです。

 昨日、平成17年度を振り返った文集(ひまわり第17号)が私宛に施設長様より届きました。
今まではこの「文集ひまわり」は母のところへ届いており、私に直接届いたのは今回が初めてです。

黒町内文集「ひまわり」第17号より表紙

 目を通してみましたが、約4ページに渡り「自立支援法」について書かれてありました。
 読み続けるうちに、いかに自立支援法が身体のご不自由な方たちにとってどんなに酷な法律であるかを知り、読み続けるのが辛くなってしまいました。

 この自立支援法については、これ以上は書きませんが、ただ一言!『誰も好き好んで障害者になった訳ではない!・・・。』そう感じております。

 いったい今の政治は何の為の、誰のための改革なのか!?
 私には、弱者を、それも本当に自分の力だけでは生活する事さえも、また、生きて行くことさえも困難な、障害を持つ方々の生活を脅かし、生きようとする勇気さえも無くさせてしまう様な法案に思えてなりません。まるで、それを意図しているかの様な法案にさえ思えてならないのです。
 罪なき者の生活を脅かし、罪を起こした者への罰が軽過ぎるのでは?そう思います。

 その裏方では、この法案を施行するにあたっては多くの政治家の皆さんが十二分にあらゆる問題を考えて考えて、考え抜いた末に、この法案を考えられ施行したのでしょう・・・。
 そんな方々の思いも知らずに、「見えるものだけ」目先の物だけを見て、私は好き勝手な事を言っているのかもしれませんねぇ〜。

 でも思います。お年寄りや身体の不自由な人達の生活を脅かし、どこが『自立支援法』なのか?と・・・。
 いずれ自分も年寄りになるのに・・・。
 もしかしたらいつどこで、ある日突然障害者になるやも知れないのに・・・。
 自分の身がある日突然障害者となった時、その時になって初めてその人達の立場を理解できたのではあまりに犠牲が大きく、遅すぎる。

 私には、国そのものが、「楽して稼ぐ事の橋渡し」をしている様にさえ感じてしまう。
 根性の腐った者ばかりがぬくぬくと肥えて豊かに暮らしていられる国の、そんな政治のどこが改革と言うのか?多くの人達がそんな不公平な法律に不満を持ちながらも、守り、そして、それに従い、一生懸命に汗水かいて働いて、人間関係に疲れながらも「生活のため!家族のため!」と疲れた身体に鞭打って働き、僅かな豊かさの中で幸せを感じようと頑張って生きている人達が大勢居ると言うのに・・・。
 「働かざる者、食うべからず」と言うが、「働けない者も食うべからず」とさえ思えてならない。

 経済の低迷は経済にあるのではなく、「人の心」。心の貧しさからきていると私は思っていて、 その素は「心貧しい」貧弱な人種が多くなっているだけに過ぎないと思っています。
 ニートが多いのもそのせいとも思っています。

 仕事が無い訳じゃなく、楽して報酬の多い会社。休みが沢山ある会社。手当てが沢山付く会社等々。とにかく楽しくて潰れそうも無い、少しでも収入の多い安定した会社へと、就職条件の良い会社ばかりを希望する者達ばかりが多いからニートみたいな者が生まれた。
 でも、ニートが悪いんじゃない!
 そんな者達を創り出した国や、私達や大人達が悪い。

 問題なのは、誰もがそれに気付いていて、また、分かっているくせに行動を起こさない。
 「自分には直接関係がないから。触らぬ神に祟り無し!」みたいな、こんな考えが問題。
 仕事が無い訳じゃない!苦労して働きたくないだけだぁ!

 では、そんな事を語る私はいったい何ができるのか?また、なにをしているのか?
 そう考えた時、自分の力の無さに改めて気付かされ、ただ々なさけない・・・。

 ただ、「いま自分にできる最大の事」をと考えてしている事と言えば、施設にダンスを見せに訪問してあげる事ぐらいの事しか今の私にはできてはいない。
 なさけない・・・。
 そんな事だって、いつまでも自分ができる訳ではない。そう思うと『辛い』。
 そんな事を考えながら文集を読み続けた。

 次のページには、どうやら施設に入院されている方々の作文が掲載されていた。
 一つ一つに目を通してゆくと最後のページの方に、「息子へ」というタイトルの作文が目に入った。過去にオヤジが私へのメッセージとして書いた作文と同じタイトル。
 気になって名前を見ると、そこには「山田 富雄」と記載されていた。

黒町内文集「ひまわり」第17号よりオヤジの作文

 オヤジのこの作文を読んで、ただただ思った事は、「オヤジ!こんな俺の踊りでも、喜んでくださる皆さんが居るからありがた〜い。そしていつまでも続けたいよ。でもなぁオヤジ!俺だって生身の人間だよ。いつまでもできるわけじゃないんだよ!?」そう思いながら読み続けた。

 短い作文だけれど、その短い文章の中には「オヤジの思い」が沢山入っていて、それがとても辛くて苦しかった。

 昔、こんなことをよく言われた。
 「あなたには(私の事)そうして何人もの親がいて幸せだね!」と。・・・
 確かに数は多いから幸せなのかもね。

 でもねぇ〜、それは目先で相手や物を見ているだけで何にも分かっちゃいないよ!
 だからと言って、その事を分かって貰おうとも、理解してもらおうとも思わないけれど、当の本人にしてみればとても苦しいものだよ!・・・。

 どんな親にでも、生んでくれた恩もあれば育ててくれた恩もある。私とて、それらの恩をけして忘れてはいけないと、そう思っている。
 それらの恩を忘れてしまっては、どんなに経済的に豊かになっても、自分が目指す「幸せ」ではない。それに、もう私はこれ以上人を傷つけてはいけない。それが自分に跳ね返ってきてしまうのも身をもって重々分かっているつもり。

 こうして私には、一時的にでも育ててくれたオヤジがいて、そして私を生んでくれた父親もいる。
 生んでくれた父親は、今どこで暮らして居て何をしているのか?
生きているのか死んでいるのか?それさえも分からない父親だけれど、生んでくれた母親同様、生んでくれた父親にも感謝している。

 そんな父親に対する正直な気持ちをこうして書いて最終編を書き上げたい。

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父からの贈り物

 右足を折る前の帰省中のある日の事です。実の父親との再会をしました。
 確か父親との再会の場所は「育ての母親の家」だったと思います。が、当時、札幌の白石(しろいし)区に東札幌という地名の場所が在り、そこに「フィッシュランド」という釣堀屋さんがありましたが、そこで父と会ったような?また、そこへ二人で行ったような?・・・。
 記憶が途切れ途切れで確信はありませんが、そんな記憶が微かに残っています。

 ポータブルテレビをどんな形で受け取ったかさえハッキリ覚えていません。が、確か父から直接受け取ってはおらず、後日、育ての母の家に届いていたように記憶しています。
 ですから直接父から手渡されてはいないと思うのですが・・・。

 ただ一つハッキリと記憶に残っているのは、ポータブルテレビを箱から出している時に育ての母親から、「マキの父さん、このテレビ買うのにかなり無理したらしいよ〜」と聞かされた場面は記憶に残っています。その言葉を聞いて、「やっぱり悪いことしてしまったなぁ〜・・・。」と思った事も・・・。そのとき父はいませんでした。

 そんな父から貰ったプレゼント。そんな大切な物を自分の目の届く所に置いていない訳ですから、「早く取りに行って手元に置いておかなくては!」という気持ちで一杯でした。
 病院を退院して確認する日まで、「テレビがあるか?無いか?」そして、「テレビ!先生にバレていないだろうか?卒業生に持って行かれていないだろうか?」と心配の日々でした。

 病院に入院中は一度も学院に戻れることも無く、また、私の気持ちをよそに卒業式も終わってしまい、とうとう病院のベッドで春を迎える事となっていました。

 医者の診断は「6ヶ月ぐらいの入院」という事でしたが、3ヶ月か、3ヶ月チョットの4月には退院したと思います。(5月に入っていたかなぁ〜・・・。)ただ、「エッ!こんな状態で、もう退院?」と思ったぐらい、まだビッコを引きながら歩いていた状態での退院でした。
 学院に戻ってからはしばらくの間ついていたあだ名は、「ビコタン」でした。(私もそう感じて歩いていましたがね。)

 強く足を着くと金具が外れてしまうのではないか?折れてしまうのではないのだろうか?という不安の期間が続き、全力疾走などとてもできずにしばらくの間ビッコ引いていましたねぇ〜。

 どれ程の期間か具体的には覚えてはいませんが、月日が経つにつれ、いつしかそんな不安も消えて全力疾走する様になっていましたが、さすがに退院してきたその年の冬は恐怖感があってジャンプはできませんでした。

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入院中での思い出

 入院生活で特に記憶に残る思い出は、向かいの病室に入院しておられた「おばさん」の事です。今は「個人情報保護法」という法律がありますのでご本人の了解もなく勝手にお名前なども書けませんが、「病院を退院してからの話し」と重複してしまいますが、そのおばさんがある日、私を「養子」にと学院に申込があったのです。その話を聞いた私はビックリしましたが、学院も、また、寮長ご夫妻も驚いたでしょうねぇ〜。

 寮長先生から、そのおばさんとの「経緯」を聞かれましたが、それに値するほどの「おばさんとのやりとり」は自分の中では無かったので、「よっぽど自分を気に入ってくれたんだろうなぁ〜」ぐらいにしか考えられませんでした。とにかく驚きました。

 これに似た事が児童相談所に入所していた時にもありました。
 大きくなってからですが、当時の私の担当の先生から聞いたことがあります。

 私を養子にと申し込みに来たご夫婦が居て、そのご夫婦はお二人とも学校の先生をしておられるご夫婦で子供のいないご家庭だと聞かされました。

 そんな事があった事を聞いて、「なんでそこに行かせてくれなかったの〜?行きたかったぁ〜」と言ったら、「お母さんが反対されたから無理だった」と聞かされました。が、それに反対した母親はいったい「産みの母」だったのか「育ての母」だったのか、いったいどっちの母親が言ったのかは知りませんが、何かは分かりませんが怖くて聞きだせずに現在に至ります。
 それを今更聞いたところで、今の自分の気持ちがどうにかなるものではないと思うからです。

 そんな過去が私にはあり、そして、あっちの家からこっちの家と転々と預けられた私にとって、「大人は勝手だぁ!!大人は子を選べても、子は親を選べない!そんなのって不公平だぁ!」そう感じていましたし、いくら幼いからと言って「子供にだって親を選ぶ権利ぐらいあってもおかしくないじゃないか!」と、強く思っていましたよ。
 後にこの気持ちが、「親を恨む素」になっていたんじゃないかなぁ〜。

 親も大人も、なにもかもが信じられなくなっていた時期が私には長くありましたよ。そして自分さえも見失いかけてしまった時期が・・・。

 そんな中、唯一信じられる大人は児童相談所にいた時の私の担任の先生だった訳ですが、私を養子に欲しいと申し込みに来たご夫婦のお話を聞かされた時には、信じていたたった一人のその先生までもを恨みもしました。「なんで行かせてくれなかったんだぁー!」と、・・・。

 今こうして思えば、その担任の先生は教員という立場で、「精一杯の詫び」をしてくれていたんでしょうねぇ〜きっと・・・。先生も辛かったのだろうと今になってそう思います。

 こんな養子の話も過去にもありましたが、人生ってどこでどうなるかはわからないですものねぇ〜・・・。

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絵を描くのも上手だったなぁ〜・・・

 入院中、おばさんとはとても親しくお話をさせて頂きました。
 とても親しみのある面白いおばさんで、私に息子のように話しかけてきてくれました。
 おばさんの手や足を何度か拭いてあげた事もあり、まるで自分の母親にでもしてあげている気分でいました。
 そして、「このおばさんが母親だったらいいのになぁ〜・・・。」「母親ってこんな感じなのかなぁ〜?」って想像しながら接していましたが、おばさんもそんな思いだったのかなぁ〜・・・。

 後に私が学院を卒業したその翌年の事、おばさんに会いたくて七飯町まで足を運びました。
 でもおばさんのお宅の前までは行ったのですが、勇気がなくて尋ねる事ができませんでした。
 それは幼い頃から複雑な家庭環境の中で育ったためか、「自分が訪ねてはおばさんの家庭を壊してしまう」そんな事を先ずは考えてしまいました。
 そんな何でも壊してしまいそうな、そんな自分が怖かったのです。

 入院中はろくに勉強もしないで、よく少女漫画の女の子や景色を模写していましたねぇ〜。
 と言うのも、少女漫画が好きだった訳ではなく、患者さんや看護婦さんからそんな雑誌を借りては綺麗な物を画用紙に描いていました。

 もともと絵は興味がありましたし上手な方でした。ただ、人物の顔を描くのが、それも「目」を描く事が特に苦手でした。が、そのお蔭で人物の顔を描くのが上達しました。
 今は全く絵を描きませんからダンスの練習と同じで、下手くそになったと思います。

 退院の日、お世話になった看護婦さん達と息子のように話しかけてくれたおばさんに、何かプレゼントと思いハンカチに万年筆で一筆描きして描いた絵をプレゼントしました。
喜んでくれていました。

 それと、その入院生活をしている時に描いた「釣りキチ三平」という漫画に描かれていた「イトウ」の跳ね上がっている姿を鉛筆で模写しましたが、その絵は何故かしら今でも額に入れて仕舞ってあります。その事を今回思い出しましたが、学院時代の物は殆ど捨ててしまっていますが、何故かその絵は捨てられずに残ってあります。(他人事のように・・・。)

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退院の日

 いよいよ病院を退院する日を明日に迎え、「学院に戻ってテレビを確かめるのには深夜しかない!それには懐中電灯が必要だぁ!」と、退院前日にペンタイプの懐中電灯を購入。

 翌日、病院を退院して学院に戻ったその日の深夜に、用意した懐中電灯を持って廊下の開口部(縁の下)へ行きましたが、ここで一つ説明しておかなくてはならない事があります。

 それは、当時の寮は寝室・学習室・便所・浴室と、寮の構造は廊下を中心とした構造で建てられていて、その廊下の先には寮長先生が住む部屋。その壁には25センチ程の真四角な小窓があり、寮の内部が見られる様に監視窓(ミラーガラス)になっていました。
 その監視窓の先に開口部があり、そこにテレビを隠していたのです。

 夜中とはいえ、もし偶然にも寮長先生にその監視窓から見られていたら・・・。
 もう、それは運を天に任せるしかない賭けでした。
 そんなヤバイ場所に隠していたのです。ですが、それだけヤバイ場所だからこそ、他の生徒からも守れると思っていたのです。あとは運を天に任せるしかない。決して大げさな事ではないのです。もし見つかったらとんでもないでは済まされない、それ程とんでもない事をしていたのですから・・・。

 帰省が終わり、そのまま寮に持ち帰っても使わせてはくれない事は明白。まして深夜に「11PM」という番組を見るなどとんでもない。
 もし見つかったその後の事を考えれば、持ち込んだ時に「父親からのプレゼント」だと説明すれば、使う事はできないにしても預かってはくれたでしょう。そして卒業する時には返してくれたでしょうに・・・。

 自分でも、その時の事を振り返ってみても、何故そんな危険を犯してまでも?と思うけれど、その時の本人にしてみれば後先の損得を考える事などできませんでした。

 そんな危険を犯しながらも開口部に無事に潜り込む事が出来ました。
 隠し持って来たペンライトで周りを照らしてみた。けれど辺りには箱らしい物は何も無い。もっと奥に隠しただろうか?と更に奥を照らしてみた。でもポータブルテレビはどこにも無い。
 『ヤッパリ卒業生に持っていかれたぁ〜!』と、その時のショックは覚えていませんがかなりのものだったと思います。諦めるにも諦めきれないで・・・。もどうする事もできなくて・・・。

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何事も経験から学ぶ

 寮長先生に、『ここに隠して置いたポータブルテレビが盗まれました!』と話し、盗んだ者を見つけ出して貰う事もできたかもしれない。しかし、それをしたらどれ程の体罰を受けた事だろう・・・。
 体罰という言葉そのものが、今ではまるで悪い事の様にされていますが、その体罰を誰よりも多く受けた私が思うのは、(もちろん自分が悪い事をしたからです。)「体罰」、身体に覚えさせるという事が、特に子供たちには必要ではないだろうかと思います。 但し、人として、また大人として、また親として「正しき良識を持った」温かな心からの体罰ですよ!

 人と人との関わりは、人と人との信頼は、心と心の触れ合い。
 学校の勉強だけでは学べるものではありません。矢張り身体で、「痛み・苦しみ・悲しみ」。そして、「優しさ・思いやり・心の汗」。それらの経験が少なすぎるから、まるで画面上で相手を殴ったり射止めたりして興奮する様にゲームの延長線みたいに、罪悪感も無く、いとも簡単に人を傷つけたり命を奪ったり・・・。

 私は、人の命を奪う事はせずには来れましたが、過去に多くの人達を傷つけ、そして苦しめた私みたいな者が言うのもなんですが、でも、傷を付けもしましたが傷も付けられてきました。
 そうして体験してきたからこそ、そう思うのです。
 ただ、その方法を間違わずにさえ出来ればですが、それには経験は必要不可欠だと感じています。

 ポータブルテレビは父に初めて買って貰ったプレゼントだったと思います。
 そして、父に買って貰った、最初で最後のプレゼントだと思います。

 こうして右足の複雑骨折に関わる事の中には、実の父親との再会があり、そして父からの贈り物があった事も・・・。大事にする事も出来なくて・・・。

 こうして学院生活時代の出来事を書きながら様々な事を思い出していますが、学院生活が長かった事もありますが、確かに幾つもの「悪さ」をしてきていますねぇ〜。
 正直、それ程自分は悪(わる)ではなかった様に思っていましたが、どうしてどうして、他の生徒ならとても後が怖くて絶対しない事をしてきてますもんねぇ〜。(知らなかったぁ〜)
 でもこの事はバレていないからぁ〜!(ハハハ〜ッ)

 今思えば、学院生活が長くて幸いだったのかもしれません。
 これで短い期間で社会に出ていたら「歩むべき道」は、学院のどの先生方も想像していた通り、別鑑 → 少年院 → 刑務所と、歩む道は決まっていたでしょうねぇ〜・・・きっと。

 私は今日まで、また、これからも、きっと「過ち」と「失敗」の連続でしょう。
 その度に、自分の愚かさを知り、悔いて改め、また自分と闘う事の繰り返しだと思います。
 だからこそ頑張っていられるのかも知れません。

 こうして、何だか歯切れの悪い最終編となってしまいましたが、「そんな時もある〜!」と、勘弁してください。
 この右足複雑骨折では、寮長先生に体罰を受けずとも身をもって痛い思いをしました。
 それに、今の仕事にも支障はきたしてはおりますが、自分が蒔いた種ですから仕方ありません。歳と共に痛みは激しくなるでしょうが、ただ一つ、自分には負けない!
 辿り着く所は一緒でも、歩む道は自分で見つけなくては。
 こうしていつまでも自分と闘い続け、少しでも、・・・克服してゆかなきゃ!そう思っています。

 それではこの辺で。・・・

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