まきおの『こんな人生だからこそ』

第16章 「右足複雑骨折の理由」続編

はじめに

 この、右足複雑骨折の理由(後編)で書きましたが、骨折して以来、はじめてトイレに行けた時のあの時の事はズ〜ッと記憶に残る一つでしょうね。まったく馬鹿げた話です。この様な、くだらない馬鹿げた事ばかりやってきて「根性みせたる!」って、わけのわからない事で自分と格闘して随分と身体を痛めつけてきました。アホだったなぁ〜と自分でも思います。そのアホみたいな事ばかりして身体を痛めつけてきた、そのツケがいつかドバーッ!と出てくるのでしょうね。正直、もう出てきてはいますが仕方ありません。

 こうなるとは知らずにとは言え、自ら進んで望んでしてきた事ですから、言い訳をするつもりもありません。が、自分の心の成長にとっては「何事にも一生懸命頑張る」という事はとても大切な要素だったと思っていますし、今もですが、成長もさせてもらっています。

 どの様な仕事においても、また、遊ぶにしてもなんにでも、とても大切な要素だと私は思います。ましてそれがプロならば。また、プロ(一流)になろうとする者ならば・・・。

 プロであり、また、それで飯を食べてゆく者ならどんな者でも、並々ならない根性と、強い「目的意識」が必要だと思います。綺麗ごとではすまない強い目的意識が・・・。そうして、それで飯を食べてゆくプロならば当然だと私は思います。その為には、とにかく「頑張る」「自分と闘う」という事が不可欠だとも、私は自分の経験を踏まえてそう思います。

 ですが誤った判断をして無理な頑張りをすると、それもまた様々な障害となってしまいますから、とても難しく、どれが正しいとは言い切れませんしね。それだって度を越してしまえば、時には自分の身体までをガタガタにしてしまい命を縮めてしまう事だってあるかも知れません。無理をするという事と、頑張ると言う事のその判断と、行動の選択はとても難しいものだと身をもって感じています。
 結果は後から着いてくるというやつですかね。

 結果はどうであれ、その事で私が学んだ事の数々は、今の私にとってはとても役立っていますし、大きな財産になっていると感じています。
 あとはそれを活かすも、また、活かさざるも自分次第だということも。
 そんな思いで、今回の「右足複雑骨折の理由(続編)」を書かせていただきます。

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せめて卒業式には戻りたい

 せめて3月15日の卒業式の日だけでも、学院に戻らなくてはならない事情が私にありました。
 ですがその事情を寮長先生や奥さんに話してしまっては、学院に戻る意味がまったく無くなってしまうのです。それどころか、それでは済まされない事情が私にはありました。ですから絶対にその理由を話す訳にはいきませんでした。

 奥さんには「卒業してゆく寮の仲間達に最後だけでも会っておきたいので、せめて卒業式の日は病院から外出させてください。」とお願いしたのです。さも仲間想いの、なごり惜しい感じでしょ?

 結局、外出はさせて貰えませんでした。3月15日の卒業式の日を前に、「何とか卒業式の前に学院に戻ることが出来ないだろうか?」と色々模索して。挙句の果てに、それまでまったく音信不通だったくせに(私がです)、函館に住んでおられた母の兄の所に電話して、その兄の奥さんに「何とか学院に戻って来たいので何とか外出させて貰える様に頼んで貰えないだろうか?」と相談しました。

 そのときの奥さんの気持ちを察すると、「なんととんでもない事を頼むマキだろう!」と思っていた事でしょうね。当時、私は親戚の方達から「マキ」と呼ばれていました。

 二十歳を過ぎてからもまだ、「マキ」と呼ばれていましてねぇ〜。それが照れくさいやら恥ずかしいやらで、「もう自分は大人なんだから、そのマキと呼ぶのはよして欲しいんだけど!それに、女じゃないし!」と、そう言ってやりたくて仕方ありませんでした。だけど結局言えずじまい。ある一人の親戚の方に、今でも「マキ〜」と呼ばれていますが恥ずかしいですよ本当に。

 さて、外出の件ですが、事は私の思惑通りにはゆかず、結局3月15日の卒業式を病院で迎えることとなってしまいました。「ある事」をどうしても確かめたかったのですが・・・。

 3月15日が過ぎてからも、寮長先生や奥さんが「いつ病院に来る事だろうか?」と、別の意味でドキドキしていましたよ。そしてある時の日曜日、寮長先生が函館に買い物をしに行く途中で病院に立ち寄って来ましたが、その時はドキドキものでしたよ。

 先生の顔色を覗いながら、「あの事バレたかなぁ?もしかしてバレてないのかなぁ?もしかしたら寮の生徒達にもバレてないかぁ?」などと、頭の中はそんな事ばかりを考えているから、「ちゃんと勉強しているのか!?」という寮長先生の問いかけに、どの様に叱られたかは覚えていませんが、叱られた事だけは覚えていますよ。(うわの空で聞いてなかったから)

 なにをそれほどまでに心配していたのか?
 その「ある物」とはいったい?・・・。

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戻りたいその理由

 その「ある物」とは、実はそれはとても高価な「ポータブルテレビ」を寮の縁の下に隠しておいたからです。
 その当時のポータブルテレビはもちろん白黒でしたが、アウトドア用のしっかりとした作りのラジオとカセット付きの、乾電池でも使えるとても高価なポータブルテレビだったのです。

 持ち主の私でさえ、手にした時に何回かと、寮に持ち込んでからはたった一度だけしか、それも深夜にこっそり起きて縁の下に潜り込み、寝床に戻って掛け布団で覆い隠しながら電源を入れて見たら、その画面から放たれる明りが、思った以上に明るくて慌てて電源を切って直ぐに縁の下に隠した始末。ですから機会があれば、昼間こっそり出して来てじっくり見てみたいと楽しみにしていた矢先の骨折です。

 身動き取れずそのまま病院に入院してしまった始末でしたから、テレビが気になって気になって仕方なかったのです。ましてそれが卒業式となれば、「もしやテレビの隠している所が寮の生徒にバレて、卒業式のドサクサで持って行かれるのではないか?」と、気が気でなかったのです。

 物が物だけに、また、隠している場所が場所だけに、まず下級生には絶対に見つからない場所でした。何故って、薄暗くネズミの死骸があるところなのですから。そんなところに怖くて下級生の生徒は自ら進んでは潜り込んだりはしませんからね。もし見つけるとすれば上級生。特に今年卒業する生徒なら持って行かれそうでヤバイ!そう思っていました。
それが一番心配だったのです。

 お正月、帰省をした殆どの生徒(私と同じ寮の生徒)は、なにかしら小物ですが、寮長先生に内緒で隠して戻ってきていました。(内緒ね!もう、とっくに時効だから。)
だから毎年決まって、1月半ばから2月にかけて、「調べ事」がありましたよ。

 私物は、「持って行って使いなさい。」と、親が買ってくれても、持って学院に戻って寮に持ち込んでも、結局は「預かり」ということで普段使わせては貰えませんでした。ですから買ってもらいたくても買ってもらわないんですよ。

 これだけを聞けば、「なんで〜?それくらい良いじゃないか。」と思われるかもしれませんが、当時の学院は「教護院」ですからねぇ。それが当たり前と言えば当たり前なんですがね。

 以前、中一の時の正月帰省の時に、今は亡き妹(富士子)から短波放送が聴けるラジオデッキを貰って、と言うより富士子を言丸めて学院に持ち帰ったのですが、そのラジオだけ、唯一日曜日の自由時間に貸し出してもらえた程度。

 そのラジオも、土曜日の日は寮長先生が勝手に競馬放送を聞いて使っていましたけどね。私も当時大した気にもなっていませんでしたが、「寮長先生とは言え、一言あっても良いんじゃないのか?」と思っていましたよ。

 今回私が持ち込んだ物は、サイズがサイズだけに押入れの中に隠して置くわけにはいきませんでした。ですから縁の下に隠しておいたのです。もし見つけられたとしても、絶対に上級生なら先生に報告するような「もったいない」事はしないだろうと思っていましたし、まして学院を出てゆく日が近ければなおの事、先生になんか報告せず卒業の日までなんとか隠しておいて「卒業するその日」に持っていってしまうだろうという危険があったのです。

 その可能性が非常に強くなったのも、卒業式以前に、もし、寮の生徒に見つけられて先生の所に届いたならとんでもない程の調べ事になる事は歴然としていましたし、そうなればいくら入院しているとは言え、私が持ち込んだという事がバレたらただでは済まないことは分かっていました。

 でも卒業式を過ぎた二、三日後になっても、何の「嵐」もありませんでしたから「もしかしたら生徒にもバレずに見つからないであるのかも?」(ワクワク)と期待を持っていました。

 いずれにせよ、一日も早く確かめずにはいられませんでした。寮長先生に見つかって袋叩きにされる痛さよりも何よりも、なにがなんでも学院に戻って確かめておきたかったのです。確かに高価な物ではありました。ですが、私にとってはそれ以上に特別な意味がある物で、単なる高価な最新のポータブルテレビではなかったのです。

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実の父からの贈り物

 その年の正月の帰省で実家へ帰った際に、実の父親から買ってもらった代物だったのです。
実の父と私は、会ったのは何年ぶりだったでしょう?私には父親の顔は全く記憶にありませんでした。それもその筈、オンギャーと産まれて直ぐに母の姉の所に養子に行ったのですから、私には「初めて会う本当の父親」だったのです。

 実母の姉(育ての母親)から、「マキー、実の父親に会ってみたくはないのかい?」と尋ねられ、エッ!いったい「自分の父親」って何人居るんだぁ?誰なんだぁ?自分の本当の母親っていったい誰なんだぁ?「もしかしたらこの人なのかなぁ〜?」と、いったい誰が「本当の親」なのか全然わからない時でしたし、またその当時の私にしてみれば、「誰が本当の親なのか?」なんていう事については、あまり関心の無い事でした。

 それもその筈、オンギャーと産まれてから「もの心」つくまでに、あっちに預けられこっちに預けられと、「自分はお荷物なんだぁ」みたいに感じて、慣れっ子になっていましたから最初はあまり動揺しなかったのですが、そんな忘れていた記憶が呼び覚まされたように、

「本当の父親!・・・。」
「実の父親!・・・。」
「どんな父親なんだろう?」
「なにをしているのだろう?」
「社長ならいいのになぁ!」
「かっこ悪い父親なら会いたくないなぁ。」
「怖いけど会ってみたいなぁ!」
「怖いけど見てみたいなぁ。」
と、心が揺れました。

 まだ一度も会った事もないその人が、実は自分の実の父親とは思いもしていませんでした。
 私が知っている、周りに居る人の誰かが「実の親」なんだろうなぁ?と思っていましたから。それが、「マキー、実の父親に会ってみたくはないのかい?」と聞かれ、返事に困って自分はいったいどう思い、どう答えたかは、はっきり記憶にありません。ただ、怖いやら、会いたいやら会いたくないやらと気持ちが複雑に揺れ動いてしまい、直ぐに返事が出来なかったことだけは覚えています。

 結局、実の父親に会ってみたいと返事したんです。
 そして育ての母親から、「せっかく会うんだから、父親に何か買ってもらいなさい。何か欲しい物ないのかい?マキの父さん、何かあれば買ってあげたいって言ってきてるんだよ。」
そう聞かされ、その時に思いついたのが持ち運び出来るコンパクトなテレビでした。

 当時、「イレブンPM」という番組が放映されていて、それが見たかったんですよ。学院でね!
 興味がありましたからね。金額は覚えていませんがとても高価な物だったと思います。

 でも、私としては「おねだり」と言うより、「今までほったらかしにしていて、自分が会いたいからと言って、ヒョコヒョコと突然現れるんだぁ!勝手だぁ!!だからこれくらいの物を頼んでも罰なんか当たらない!」と言う、さほどでもないその腹立たしさを、今思えば自分自身「正当化」していたと思います。その反面、心の中には、あまりに高価すぎる物を「欲しい」と言ってしまったことに後悔していましたから。

 どうやら、今回の「右足複雑骨折の理由」(続編)で書き終えることは出来なさそうです。
 こうして書いてゆきながら、一つ一つ鮮明に思い出し始めています。
 父親かぁ〜・・・。
 父親。

 親は無くとも子は育つと言いますが、確かにそうかもしれません。でも、「血のつながり」だけはいくら私が心で強く願っても、切って切れるものではありません。
 それでいいんじゃないですか?結局は血のつながった「親と子」なんですからぁ。そんなことに意地を張らなくても・・・。
 意地は違うところで張ったほうが自分のプラスにもなります。自然に任せましょう〜。

 今、なにをして、どんな父親で居ようとも。
 また、どんな姿であろうとも、生きてさえ居てくれたなら、それで良い・・・。
 生きてさえ居てくれたなら、いつか、縁があればいつか、会うこともあるだろうから・・・。
 そんな時がもしもあったなら、その時は、まるで乳飲み子が乳欲しさに泣くかの様に、顔がぐしゃぐしゃになるくらい「父さぁ〜ん!!」って泣きわめきながら、父さんの胸の中に飛び込んでいける、そんな「素直な自分」であれば良いなぁ〜・・・。
 そのときまで、元気でいてくれてさえ居てくれれば、それで良い・・・。元気でさえ居てくれれば・・・。

 最後までお読みくださいましてありがとうございました。

荒町 真樹生

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