第13章 「もしかしたらこの事が?・・・。」
はじめに
今回は、前章「第12章 我ら青春!!」に登場しているF先生との事のお話で、「もしかしたらこの事が原因では!?」と感じた出来事を書きますが、あくまで私個人の不鮮明な記憶と実際にあった事を基にして想像と推測で書いております。ですが心に嘘偽りを持って、面白おかしく書いてはいない事もご理解くだされば幸いです。新しい風
あれはそう、前章「我ら青春!!」でサッカーをしていて起こした事件の2、3ヶ月前の修学旅行での事です。通常、修学旅行といえば学年単位で行うものですが、何故だか理由はわかりませんがこの時の修学旅行は学年単位では無く、生徒全員で行ったと記憶しています。 宿泊する部屋の割り当てや行動は、寮単位だったような?そうでなかったような・・・。
寮単位で行動する場合は普通、寮長先生が監督する訳ですがこの修学旅行の時だけは幸いな事に寮長先生では無く、前章のサッカーでの事件で私が歯向かったF先生でした。
私が記憶している範囲で「何故そうなったのか?」の経緯をお話しすると、確かこの時の修学旅行で寮長先生は何日かの休暇を取ったと記憶しています。寮長先生が何日かの休暇を取った事などは私が在籍中には後にも先にもこの時が初めてだったと思いますが、実はこの後の記憶と噛み合わないのでいるのもまた確かなのです。・・・
私の記憶では、とにかくこの寮長先生は殆んど休みを取らなかった先生だったと記憶しております。それほど熱心に仕事をする先生だったのでしょう、私にしてはそれが大変有り難くない事で、寮長先生に頼むから連休を沢山取って貰って分散をさせて欲し〜い!と願っていましたよ。
分散とは、寮長先生が何日か連日で寮を空け不在となる場合、その寮の生徒は他の四つの寮へ一時的に預ける事を分散と言っていました。ちなみに私が一度は行ってみたかった寮は○○寮でしたが、一度もその寮へは行く事が出来ませんでした。残念!
分散についてですが、私が低学年の頃に一度か二度、分散したような覚えが何となくあるような無いような・・・。と言うのも、私達生徒が普段他の寮へ行くという事はまずありません。ですが、○○寮と○○寮の玄関内部の様子が記憶に残っているのです。それが、私がまた何か事件を起こして被害にあった生徒に謝りに行っているシーンなのか何なのかが曖昧で・・・。いくら考えても記憶が甦りません。ですから分散中なのかなぁ〜?とも思うのですが・・・。こうして書いていくうちにいつか思い出すのではないでしょうか?とにかく他の寮長先生が休暇を取って分散があるのに対して、うちの寮は本当に分散が殆んど無かった事は確かですわぁ!トホホ・・・。
そんな先生が学院の大きな行事、「全生徒による修学旅行」があるにも拘らず休暇を取ってくれて、その代わりがF先生となった事が私にとってはこの上ない開放感であった事は言うまでもありません。とにかく開放感全開〜!って感じでした。
前章でも書いたように、F先生は学院に来られてまだ月日が浅く、この様な大役も初めての経験だったのではと思います。・・・多分。 私達はF先生を新鮮に感じていた反面、言葉は悪いですが少しナメてもいましたねぇ〜。でもこのままF先生が私達の寮長先生になってくれれば良いのになぁ〜・・・。と叶わぬ夢も抱いていましたよ。一時的ですが、この先生が今回の修学旅行での私達の寮生徒の担任となったのです。
今思えば、学院の「しきたり」や「常識」が変わり始めたのは、F先生やK先生が学院に来られてからの様に思えます。生徒の服装や規律や行事内容の変化などがね!学院にそんな新しい風が吹き始めたのはこの頃からではなかったでしょうか?・・・。
修学旅行での微かな記憶
この修学旅行の日程は全く記憶に残っておらず、ただ、一ヶ所が札幌でもう一ヶ所が洞爺湖だったという事だけ覚えているのです。それと洞爺湖では、ローラースケートで遊ばせて頂いた様な微かな記憶がありますが、これはこの修学旅行の時では無かった様な・・・。この修学旅行の時の事でハッキリと覚えているのが、いったいどの様な関係があるのか自分でも理解不可能なのですが、ホテルの中に在ったボウリング場の光景が記憶に残っているのです。が、それが宿泊中に覗きに行ったものなのか?ボウリングをしたのか?は全く覚えていません。それともう一つ記憶にあるのが、私と同じ寮のW君という生徒の事で、彼は当時確か小学5・6生だったと思います。そのW君がホテルの1階ロビーでF先生を大変困らせている様子が記憶に残っています。W君は普段でも何処か少し変で、寮長先生しかり、その奥さんをも大変困らせていた「とても手のかる生徒」で、私達上級生から見ても「コイツ、何処か変だぞ!少し頭がおかしいのではないだろうか!?」と思っていました。それくらい変わった後輩でしたねぇ〜。うちの寮にこんな後輩が居たのでは恥ずかしいと本気で思っていたぐらいですから。・・・が、今思えば、少し「知恵遅れ」の子だったのかもしれませんねぇ〜。いくら知らなかった事とは言え、いくら私が子供だったとは言え、今思えばW君をそんな風に見ていて殆んど助けてやった事など無かった。いや、一度も助けてあげた事など無かったのでは?と、何もしていないのに何故か可哀想な事をしたと反省しています。
彼、元気で頑張ってくれているかなぁ〜・・・。そんなW君には大変申し訳ないのですが話を続けさせて頂きますと、N先生でさえ手をやいて大変な苦労をしていた生徒ですから、若いまだ新米のF先生では歯が立つはずも無く、この修学旅行ではF先生は大変ご苦労をされたと思います。
そしてもう一つの記憶ですが、それは当時の札幌駅地下のステーションデパート地下商店街での事です。日程としては札幌が先なのか洞爺湖が先なのか順番が全く記憶に有りませんが、修学旅行で洞爺湖と札幌のこの2ヶ所に行った時の「一部の事だけ」は覚えています。が、あとは全く記憶に有りません。それこそ普通の人からすればハッキリとしている所は妙にハッキリ覚えていて、それに比べて記憶に無いところは全く無いという事がとても理解し難いのかも知れませんねぇ〜。第一、私自身もそんな自分の頭を不思議に思っているのですから・・・。幼い頃から頭を殴られ過ぎ!もしかして?(笑)
ですが私の「生い立ち」そのものが普通ではないので、普通の方には理解できなくても無理もないと思っています。もう一つ言わせて頂けば、今この時代の「普通の人」っていったいどんな人を普通の人と言うのだろうか?と思います。何を基準として普通の人と言うのか、・・・。
まさかこんな事をしてくれるとは・・・。
さてもう一つの、札幌駅地下ステーションデパート地下商店街での記憶にF先生とが繋がっているのです。当時、実の母は私が言うオヤジと結婚して札幌で暮らしていました。(後に母から聞き、再婚では無い事を知りましたが、なら私はいったい?この事についてはいずれ書く時が来ると思います。)結婚した事をいったい自分はいつ知らされたのか?は覚えていません。気が付いたら知らないオヤジが居た!こんな感じです。話を戻しますが、学院の修学旅行中であるにも関わらず親と面会させて貰えたのです。来年春には学院を卒業です。小学三年生から入り約6年間学院に居るわけですから、その配慮から親と会わせて下さったのでは!?と思いました。その時、それ以外には考えられなかったのですが、とにかくとっても嬉しかったです。一瞬、F先生の配慮からでは!?とも思いましたが、後で考えてみるとその様な事をF先生が独断で出来る筈ありませんから「あれは学院の配慮だったのだろうなぁ〜」と、思います。
私が覚えている限りでは、修学旅行中に親と面会できる様に配慮してくれたという事は後にも先にも私が在籍中にはこの一度だけで、他の生徒は私と同じ様に親と面会させて頂けたのだろうか?私だけだったのだろうか?と考えてしまいます。卒業してからも、この様な配慮をして貰ったという事を他の卒業生からは聞いた事はありません。まっ、あったとしてもこんな事は話題には上りませんがね。そう言えば私が卒業する前の年に、野球の地区予選大会で函館に行った際にもそんな事が!・・・。からすれば寮長先生のご配慮から?それで学院で許可されたのでしょうかねぇ〜・・・。こう考えれば人を憎まず心優しくなれるでしょ!?それどころか感謝の気持ちにもなれるでしょ!ものは考え様とはこの事ですよ。
せっかく親と面会させて頂いて、何処をどう歩いたのかも何を話したのかも殆んど覚えていません。ただ一つだけ鮮明に覚えている事は、「札幌駅ステーションデパート地下商店街」のおもちゃ売り場での事。何なのでしょうねぇ〜、自分の事ながら本当に自分でも不思議で仕方ありません。なぜ断片的に、それも一部分の事しか記憶に残っていないのか?自分でも不思議で仕方ありません。私が大人になって行くその成長過程に於いて、それらの事が実は大きく影響していたのでしょうねぇ〜・・・。その影響は今も尚、また、これからの人生に於いてもあるのでしょうけれど良くも悪くも自分次第です。勝ち負けの問題ではありませんが、自分に負けまいとこれからも闘って行くしかありません。
家計の事情を知らず・・・。
記憶に残るその風景は、親達と札幌駅地下ステーションデパートのおもちゃ売り場にいて欲しい物を物色している自分の姿。そしてオヤジも気前のイイ事を言い、「何か欲しい物は無いか!?何でも買ってやるから欲しい物を言え!遠慮するな!」って言ってくれている、オレンジ系の生地で茶色のストライプの入った派手なダブルのスーツを着たオヤジの姿。ある時、母と妹と私の三人でその時代の頃の事を話していてフッと思い出し、この時の事を母に尋ねたら「オヤジはイイ振りこきの虱(しらみ)たかりだからぁ〜」って聞かされましたが、昔この言葉は私も引用して使ったものです。「この〜ぉ、いい振りこきの虱たかりがぁー!!」ってね。今ではすっかり死語ですねぇ〜。
この頃のオヤジは会社を経営していましたが親父のお金の使い方はハンパではなく、そのお金の使い方の荒さに母は、「このぉ〜!ドンブリ勘定のザルオヤジ!!」って怒鳴っていましたよ。その度に母はオヤジにブン殴られて、ド突かれて・・・。母と昔話をしていてこの頃の話題で盛り上がり大笑いをした事がありますが、当時の会社の経営はオヤジの「呑む!打つ!買う!」の三拍子で母は大変な苦労をしていた時だったと聞かされました。苦労はその後も続きましたが・・・。
母は、「それでも山田のオヤジはお兄ちゃんに買ってやりたかったんだねぇ〜・・・性格の良い人だったんだけどねぇ〜・・・。」と、この話を聞いた時は、「そんな大変な時に買って貰って、母に迷惑かけちゃったんだなぁ〜」と心痛みましたよ。こんな心の痛みの繰り返しがある時期から始まって、いつの間にか親や社会に対して持っていた憎悪みたいなものが薄れていきましたよ。昔、自分は何も親らしい事をして貰った事は無い!と、何年も何年も親を憎んでもいました。ほんとに何年も何年もです。
社会に出てからある時期の事、どんなに悲しくてもどんなに淋しくても、戻る家も無ければ救ってくれる人など誰も居ない。それどころか非行少年・教護院出という事だけで進学や就職に災いして悔しい思いをした事が続いた時期がありました。
その度に、
「絶対に他人には負けねぇ!」
「学歴だけで人が見られるのなら進学してやる!」
「勉強が出来ない訳じゃない!」
「勉強がしたくても、進学したくても、学費を出してくれるそんな親が俺には居ないだけだ!」
「だったら自分で学費を稼いで自分の力で行く!!」
「そこら辺のヘイヘイボンボンのガキや、親のスネかじって幸せそうに暮らしている奴らになんか 絶対負けねぇー!」
「クソッタレー!クソッタレー!」
「今に見てろぅー!絶対偉くなってやる!」
「俺が偉くなってから、自分が親です!と親面されて来られても、そんなの俺は認めねぇー!」
「冗談じゃねぇー!クソッタレー!俺には親も身内も親戚も何も要らない!」
「今に見てろぅー!今に見てろぅー」
と、ある時期から親や社会への憎しみの全てが頑張ろうとするエネルギーに変わり、必死になって働いた事が、更なる「自立心」や「根性」を自然に養ってくれたと思います。が、その反面、こんな私のお陰で随分と迷惑を被った人達も何人も居ます。そして自分の体も・・・。時が来ればその時代の時の事も書きますよ!自分への戒めとして・・・。
母は本当に苦労しました。本当に苦労なんて半端なモノじゃなかったですねぇ〜・・・。身体のあっちこっち骨折したり、左耳の鼓膜が破れて聞こえなかったり。母の事については夫婦だけにしか理解出来ない事や分からない事がありましょうからこれ以上のお話できませんが、単なる苦労話では済まされませんからこのお話はもう止めましょう。・・・ただ々私には、死迫る恐怖感としか残っていませんが、きっと母にはそれ以上のものだったでしょう。ですが、その記憶が今では私へのストッパー役を果してくれています。「人の振り見て我が振り直せ」とはこの事でしょうねぇ〜・・・。今度は自分がその者と変わらぬ者になりかけた時、その時の恐怖体験の光景が甦っては私を思いとどまらせてくれましたから、私には本当に善い人生勉強をさせて頂いたと思っています。それを信じるも信じざるも、また、綺麗事だ!と鼻で笑うのもみなさんの自由ですが、今私は、先ずは自分に正直でありたい!そう思うのです。そしてその審判は自らが厳しく下すべし!と思っています。私にとって、他人に知られなければ、分からなければそれで良いと言うものでは無く、こんなご時世だからこそ、時には自分に厳しくもしなければ人も今の社会もすっかり腐れきってしまうでしょうに・・・。と、思うのです。
優しさという言葉の裏には当然、厳しさがあります。そして厳しくされる者にも、また、厳しくする者にも、共に心痛み、共に傷つく心の重さは同じです。だからこそ、そこから信頼関係が生まれ育つのだと思います。そして、それは自らの行動から生まれ育つもので、言葉からでも理屈からでも無いものだと私は思います。そして利害関係では無い、心から真の信頼関係を望もうとするならば、先ずは自分を育てる努力をしなくてはいけないのだと人生勉強をさせて頂いております。(すっかり脱線してしまいました。)
買って貰ったはいいが!
おもちゃ売り場で、いったい何を買って貰おうか随分悩んで歩き回りました。ラジコンカーを買って貰って、雪が解けたら学院のグランドで遊ぼうか?アッ、その頃には学院にはもう居ないからこれは駄目!ラジコンの飛行機にしようかぁ〜?それならグランドでも何処でも広くて雪がある所なら落ちても壊れないかも? なんて、何を買って貰おうか選ぶのにも随分迷っていましたねぇ〜。と言うのも、他の寮の事は分かりませんが私の寮ではこの様な物(私物)は普段自由に使わせて貰えませんでしたから、自分一人だけで遊ぶ物を持って帰っても果たして?と、かなり悩んだなぁ〜あの時。ちなみに、後に学院を卒業してからある卒業生から聞いて知りましたが、その彼が居た寮ではその様な物はわりかし許されたらしいのです。(あくまで話ですが・・・。)分散で一度だけでも行きたかったなぁ〜・・・ヤッパリあの○○寮。
まぁ〜結局は買って貰ったのですが、選んだおもちゃが車を4・5台走らせられる「ゴーカート・セット」でしたよ。一万円近くしたように思いますが、一万越えていたかなぁ〜・・・。母もそのおもちゃの値段は記憶に無いそうですが、当時の一万円近いおもちゃは贅沢なおもちゃでしたよねぇ〜。どうせ持って学院に戻っても、普段は使わせて貰えないのにね!
親とおもちゃ売り場に行っている間、果たしてF先生が同行していたかどうかは覚えていませんが、帰りのバスの中で先生に「こいつどうしょうもない奴だなぁ!」みたいな嫌な顔をされた時のワンショットは覚えています。それとおもちゃを持って学院に帰れる事にヤッター!と、優越感みたいな快感を感じていた記憶も残っていました。
全くこの事は忘れていた事でしたが、「こんな人生だからこそ」を書き続けるにつれて少しずつ記憶が甦ってしまい、今回の事は前章「我ら青春!!」でのF先生との事を書いていて思い出してしまった事です。これがF先生でなくて寮長先生だったらいくら親の前とは言え、寮長先生ならきっと駄目!とハッキリと言っていたでしょうし、私もF先生だからこそ駄目とは言われないだろう!買ってしまえばこっちのモノ!と思っていた事も本当ですねぇ〜。すっかり思い出してしまいました。こうして思い出した事で、この事が前章の「我ら青春!!」での事と、「もしかして繋がっているのでは!?」と思ってしまったのでした。
持ち込めたはいいが!
寮に戻ると寮長先生も奥さんも既に帰って来ておられたと思うのですが、そこの処は全く覚えていないので何とも言えません。が、とにかく学院に持ち込めた事で第一関門突破!親に買って貰ったゴーカート・セットを無事学院に持ち込めました。でも第二関門の「寮へ持ち帰ってから」の事を考えると、とにかくヤバイ!と思っていました。寮に向かいながら何処かに隠してしまおうか?と思っていましたよ。まさか捨てるわけにもいきませんしね。でも隠せたとしても、いったい何時何処で先生に見つからない様に遊べるのか?また、下級生に見つからない様にするには?・・・と頭の中がグチャグチャで、だんだん近づく寮を前にアタフタしていた時の事をすっかり思い出してしまいました。結局はどうする事も出来ずに寮に持ち帰ったのですがね!早い話、規則違反をしている訳ですから、例の如く「尻ビタ&自由時間一週間正座」というお仕置きを覚悟していましたよ。仕舞には、「何をされても、とにかくゴーカート・セットが無事であれば!・・・。」と願っていました。あいやぁ〜、忘れていた事少しずつ思い出すなぁ〜・・・。結果は、尻ビタも、自由時間一週間正座も何のお咎めも無しぃ〜!この件についてはホントに何もお咎めなしでしたねぇ〜・・・。とても不思議に思いましたよ!でも矢張りゴーカート・セットは、卒業式の日まで一度も出して貰える事はありませんでした。当然といえば当然ですが、・・・。
修学旅行では全生徒が学院の外に出る訳ですから、生徒が脱走でもしないかと先生方も神経がピリピリしているでしょうし、まして大勢ですから一人の生徒ばかりを注意して見ている訳にもゆきませんでしょうしねぇ。そんな時に規則正しく団体行動を取らなくてはいけないのは当たり前ですよね。今思えばですよ、今思えば私は他の生徒の模範生でいなくてはならない存在であった訳です。まして私だけが親と面会をさせて貰えるという機会を与えて貰えたのにも関わらず、私は親におもちゃを買って貰うという規則違反を犯したのですから・・・。
確かに修学旅行では何千円も使えるだけのお小遣いでは無かったとは思いますが、各自自由に使えるお小遣いを与えて頂き、買い物を自由にして良い事にはなっていたと思います。更に私には、親に面会させて貰える機会を与えて頂いていながらも、一万円近い或はそれ以上だったかも知れないおもちゃを買って貰ったのですからねぇ〜・・・。
後で思う規則違反(後悔先に立たず)
思いもよらない修学旅行中での親との面会。嬉しさのあまり舞い上がっていたのだろうか?・・・この様な配慮をされた生徒は他に存在したのだろうか?そんな折角の学院の配慮だったのに、私は「自分だから特別にしてくれたんだ!」と後で優越感に浸っていた様に思います。学院に戻るバスの車内でも、他の生徒に自慢げに話していた事も思い出してしまいました。私が犯した規則違反はそればかりではありませんが、F先生の気分を害してしまっていたのではないかと考えてしまいます。修学旅行に親と面会をさせて頂く機会を与えて貰っていながらも、寮長先生が居ない事を良い事におもちゃまで買って貰ったのですからぁ〜・・・。この私の規則違反は当然の事ながら直ぐに職員会議にかけられ、その事でF先生はきっと何らかのお叱りなり始末書等を書いているのでは?と考えてしまいました。たとえその様な処分が無かったとしても私がF先生だったなら、学院の規則を十二分に知っている生徒に、こんな時に!こんな勝手な事をされてはメンツ潰されたぁ!と、私ならきっと心のどこかにその腹立たしさが残っていたのではないだろうか?と、第12章を書いていてフッと思ってしまいました。
それが2・3ヶ月後の体育授業でのサッカーの時の事と結びついているのではないだろうか?と、思った訳です。この第13章に関しては幾つかの事実を基に私が勝手に想像して書いている事で、F先生の真意は分かりません。ただ先にも書きましたが、もしこの修学旅行の時の私の規則違反の事が原因だとするならば、私がF先生の立場なら「私という生徒」は非常に気に入らない生徒の一人で在っただろうなぁ〜と、思ったのです。
教師ってなんぞや!
所詮、教師も人の子ですから感情だってあります。(当たり前です。)教師だから、偉いから、経営者だから、親だから、大人だから・・・。だから言う事が全て正しいという事は全くありません。今では間違ってもそんな事は決して言えない世の中です。恥ずかしながら私もその一人ですが・・・。私も一教師です。専門的知識を持っている一教師ですが、何時までたっても様々な形で勉強しなくては時代の流れには付いてはゆけません。ダンス業界に於いても私を含め、いくら教師とは言え様々な教師がおります。(上しかり下しかり)
私事で申せば、生徒さんに教えていて感情的に怒ってしまう事は日常茶飯事でした。(特に昔は。)今こそかなり冷静(オヤジ)になりましたが、昔は大変なものでした。だからと言ってただ怒鳴っている訳でも無くて、真剣に本気で上手にしてあげなくてはと思いつつ教えているのですが、何時しか怒鳴っているんですよねぇ〜。でも怒鳴られている生徒さんは別にプロになる訳でもないし、お金を払って怒鳴られに来ている訳でも無いのにね!
教師という立場の者であるにも拘らず、感情を抑えきれずに不甲斐無い態度や言葉を吐いてしまったりした事は数え切れないほど沢山あります。でもそんな経験のお陰で、そこから多くの事を学びました。私にも、心痛めては眠れない日も沢山ありました。また、自分はダンス教師としては向いてはいない!と、何度も何度も辞めようと考えた時もありました。それが今でもまだ続けられているのも結局は生徒さんのお陰で、自分を必要としてくれる生徒さんがいたからです。そんな経験もお陰様で沢山させて頂きました。
どんなに素晴らしい鎧(容姿)を纏っていようとも、所詮は一人の人間である事にかわりはありません。自分が弱いと認めていればいるほど、また、力量の無い者ほど吠えたくなるものです。また、そんな者ほど誰にも負けまいと、素晴らしい見栄えのする丈夫な鎧をやたら纏おうとしたくなるのも心理です。本当に実力のある者は決して弱い者を相手にはしません。また、そんな人は常に自分より強い者に向かって行き、常に人より一歩も二歩も三歩も先を見ています。だから本当に力のある人は弱い者を助けようとします。
助け方も、檻の中の動物に物を与えるみたいではなく、時には厳しく、真から優しいのです。理屈からでは無く、諸先輩の姿から学んだ私の体験談からですが、そんな方はホント!私みたいに多くを語りません。自分もそんな諸先輩達みたいになれる事が理想ですが・・・。
少し話が逸れてしまいましたが、この時の修学旅行やサッカーの時のF先生とのやり取りはズ〜ッと遥か遠い昔の事ですが、どの様な人でも、所詮は一人の人間です。地位や容姿なんかは所詮、揚げ物のコロモみたいなモノで、中身が半熟であろうが生であろうが、コロモで包めば中身は分からない!人の中身(人格・性格・心)も同じで、時間を掛け、肌と肌で付き合わない事には分かりゃ〜しないですよ。人格=性格/性格=人格みたいなもので、切り離して考える事は出来ないモノ同士だと思いますよ。性格はコロモみたいに、そうそう簡単に付けたり剥がしたり出来る様なモノじゃないですからねぇ〜・・・。
人は皆、傷つけ、傷つき、気付かされながら支えあって生きているのが人なのではないでしょうか?知らず知らずのうちに・・・。
さて、親に買って貰ったゴーカート・セットのその後はどうなったのでしょう〜?
はい!そのゴーカート・セットは私が学院を卒業(退院)する卒業式の日迄、ただの一度も出して貰って遊ぶ事無く、ズ〜ッと備品室に保管されていました。いずれその卒業式の事を、「大沼学院を退院する日」という中で書きますが、ゴーカート・セットが卒業式の日にいったいどうなったかをその時に書かせて頂きたいと思います。このまま卒業式の時の事を書いてしまっては、少年時代「大沼学院での思い出(前編・後編)の全てがここで終わってしまうので今回はこの辺でストップ!何故なら、学院生活の事ではまだ幾つか書いて記しておきたい思い出や出来事があるからです。
この章の最後に一言
私自身、自分の人生を今一度こうして振り返りながら改めて自分を見つめ直し、新たなこれからの人生に役立てたいと前向きに考えております。どれ程自分が更なる成長をしていけるかは想像もつきませんが、ただ険しい路のりであるからこそ、その険しい坂路をほんのチョットずつでも昇ってゆきたい!そう思っています。 その路はいったいどんな路?
君にとってその路は、いったいどんな路?
その路は、いったい誰が創った路?
君自身が創った路?
それとも今の社会が創った路?
いったい誰が創った路なの?
君はどうして険しい路をワザワザ進もうとするのか?
周りには歩き易い路があるかも知れないのにどうしてわき見もせずに
自ら険しい路を選んで進もうとするのか?
今の私にとって、歩くその路は辛く険しい坂路でなくてはいけないのです。何故って、楽になるにはまだまだ十年は早いから。(まだまだ全然修行が足りんですわぁ!)
一生かかっても無理かも!?でも、とにかく今は人生の基礎、人としての基本と体力と持続力を身につけなくてはならないからと思うからです。
そんな険しい坂路をいつか昇りきれたら、辿り着くその地はきっと沢山の花が一面に咲くところ。そして可愛い鳥達が飛び交い、澄んだ空気と澄んだ川の水のあるところ。
そんな[ところ]と[ところ]を繋ぐ乗り物は滑り台。
ジェットコースターみたいに勢いよく下って行き、爽やかな風を感じながらその勢いで上がってハイ、ジャ〜ンプ!「着地成功〜!10点満点!!」って両手を広げて着地。
様々な場所へ自由に行き来できる滑り台。けして滑り落ちない安全な滑り台。
そんな夢を見ながら、とにかく今は、やれる限り頑張ろぅ!自分が納得出来るまで!と自分と闘い頑張っています。
この「こんな人生だからこそ」をお読みくださり、ご意見ご感想がございましたら是非是非、私(荒町)宛にメールをお送り下さいますよう宜しくお願い致します。返信メールを送らせて頂きたいと思います。
荒町 真樹生
まきおの『こんな人生だからこそ』へのご意見やご感想はこちら(荒町宛て)までお送り下さい。


