第9章 「一時帰省」前編
一、模範生に変身
私が居た頃の学院では、毎年10月になるといつも叱られたり問題を起こしていた生徒達がやたらとおとなしくなったり、また、勉強熱心でなかった生徒が妙に勉強に力を入れる様になったりという現象が起きました。 10月頃から、所謂「模範生」になる様に心掛ける時期でもありました。
時期的には「高校進学を控えてでは?」と思われそうですが、進学を意識してではないほかの理由が有りました。また、私が居た頃に高校進学を目指して中途退院した生徒も、実際進学した生徒も何人もいませんでしたね〜。
成績も良く、生活態度にも何の問題も無かった仲間も居ましたね。
「何でここに居るんだ〜???」
という仲間が・・・。
多くの生徒は、職業訓練学校に行きました。まだこの時代は、中卒の子を「金の卵」と、呼んでいる時代でしたからね〜。懐かしいです。
では、何故10月頃になると生徒達が、出来るだけ問題を起こさない様に心掛けるのか!?その理由は、毎年12月28日からだったと思いますが、年に一度、約一週間から10日間程の親元への「一時帰省」が出来るのが理由でした。でも、全ての生徒が一時帰省できる訳ではなく、出来ない生徒のその中には小学生の子も含まれていました。
中学生であっても、また、一時帰省できる条件(親元)があっても必ず帰省できるわけでもありませんでした。
帰省できるか否かの判断は、一年を通して「日常の生活態度」でも決められましたから、12月迄に何の問題も起こさなかった生徒であっても、12月27日の帰省前日に何か問題を起こした場合は、事によっては最悪一時帰省が出来なくなってしまう事だってありました。
事実、そんな一時帰省を目の前にして帰省が出来なくなった先輩が私の寮にはいました。どんな問題を起こしてだったのか、また、どの様な事情があってだったのかは忘れてしまいましたが、そんな先輩もいました。
だから一時帰省が出来る生徒であれば、どの生徒もみんな10月に入った頃からは一時帰省を意識し始めて問題を起こさない様にと、浮かれる気持ちを抑えて「模範生」になる様に心掛けたものです。
ですが、生徒の中にはどんなに模範生で居ても、また、いつ退院してもおかしくない程の模範生であっても「一時帰省が出来ない」また、「退院」が出来ない生徒も存在しました。それは、「帰る所が無い」からです。そればかりではないですがね・・・。
私みたいに学院生活が長いと、色々と情報が入ってきていましたからね〜。私は口が堅いことで有名でしたから、先生方には「鈴木真樹生は何でも知っている!」と思われていましたよ。「学院内の事は鈴木真樹生に聞け!」でしたね〜。
当時の私は、そんな風に思われているとは知る由も無く、私自身は「自分は先生の目の敵にされている!」と思っていましたよ。本当!
ですから寮長先生に、何かあって叩かれれば叩かれるほど、まして仲間の事で聞かれて調べ事なんかされた時には、叩かれれば叩かれる程「絶対、口が裂けても言うものか!」でしたから要領が悪かったですね。
また、これが知っているから困ったもので、辛いものがありましたよ。ですがその代わり、仲間からは絶大な「信用」が有りました。
まぁ、私の事はさておいて、真実は定かではありませんが、帰省できる様になるのも、また、出来なくなるのも、寮長先生の力が大きかったのではないでしょうかね。
そんな訳で一時帰省を目の前にした生徒は、とにかく問題を起こさない様に、また、先生に注意されない様に浮かれる気持ちを抑えて模範生に変身したものでした。
二、なに哀しくて!
12月にもなれば、それはそれは大変!学校に行っても寮に戻ってきても、特に消灯時間になってからは、「一時帰省したら何したい!」
「あれ、食べて来よ!」
「いつ何処で会う!?」
などと生徒同士で「会う約束」をしたり、連絡場所を教えあったりで、そんな話で盛り上がるのです。でも、その話の輪の中に入ってゆけない生徒も当然の事ながら矢張りいたのです。
帰省したくても、いくら優等生でも模範生でも、帰省できない生徒が居たのです。
何か悪さをして帰省が出来なくなってしまったのなら諦めもつきますが、そうでない他の事情で一時帰省ができない生徒にしてみれば、そんな愉しそうな話の輪の中に入りたいどころか、そんな話を聞きたくもないでしょう。
私が学院に入った理由は、親のところが嫌で大沼学院を自分で選択して来たのですから、そんな話の輪の中にいても全然へっちゃらで、
「親の所になんか帰りたくなんかない!」
「誰が帰りたいもんか!」
「どうせ帰ったって、ただオヤジに殴られてど突かれるだけで、なに哀しくてあんな親の所へなんか!」
「この学院に居る方がまだ安全だ!」
と、こんな調子の私でしたから帰省で盛り上がる話の中にいても羨ましいとは思いませんでしたが、ですが矢張り時が経てば母恋しくなるもので、私がまだ一時帰省が出来ない小学5年生の「一時帰省シーズン」間近のある日の夜のことです。
消灯時間も過ぎて何時間も経っているのに一時帰省が出来る生徒達が楽しそうに話しているのを聞いていてだんだん淋しくなってきてしまって布団をかぶりながら、
「母さ〜ん、会いたいよ〜・・・。」
「淋しいよ〜・・・。」
「母さん!迎えに来てよ〜・・・。」
と泣いた事がありましたね〜。そして、
「もぉ、こんな思いをするのは嫌だー!早く中学生になりたい!・・・」
と2回泣きましたから、小学5年生の時でしたね。きっと・・・。(自分の実の母親が誰とも判らないのに。)
でも、なんで母親なのでしょうね〜!?苦しい時や悲しい時は、いつも私は「母さ〜ん!」って叫んでいましたね。
自分でも、
「何で母さんなんだ?親が誰かも知らないのに!」
と、自分に問いただした事がありましたよ。何故なのでしょうね?
こんな自分と同じ様な気持ちで泣いていた生徒も何人も居たでしょうね〜、きっと・・・。
三、一時帰省のできない子供達の正月
とにかく静かなお正月でしたね〜。お正月なだけに、起床時間も消灯時間も一時間ほど長くなるのです。学校も一般の学校と同じ様に冬休み。食事の献立もお正月ならではの料理も出ましたよ。どんな物が出たかは覚えていませんが、いつもの献立とは違いましたね。その代表の一つに「みかん」がありました。みかんは今でも大好きですが、そんな事ぐらいしか覚えていませんね!
小学生の頃には、みかんは何時もの献立には出てきませんでしたから、私にとってはみかんが学院のお正月みたいなものでした。
それにお正月期間中は、上級生の殆どが一時帰省をしていて居ないので、虐められる事もリンチに遭う事も無かったと思いますね〜。とにかく静かなお正月でした。
それといつからか時期は覚えていませんが、一時帰省のシーズンになると一時帰省で生徒が少なくなった寮の生徒達が、その期間だけ他の寮へ移動する「分散」というのがありましたが、それが問題!
私が居た寮は芳泉寮(ほうせんりょう)という寮でしたが、芳泉寮は分散させられる生徒の間では超人気薄でした。理由は皆さんのご想像にお任せするとして。その芳泉寮への分散を頑なに拒み続けた先輩もいました。その先輩の気持ち、よ〜く分かります。
また、その先輩に限らず、どの寮の生徒からも芳泉寮への分散は好まれませんでしたね。
分散か〜、懐かしいです。
私の寮も何度か分散という機会がありましたが、自分が「行きた〜い!」と願った寮には行かせてくれませんでしたね〜。その行きたいと願っていた寮にだけは、何回か分散する機会がありましたが、一度も行けませんでした。
何故だったのでしょうね!・・・。行きたかったな〜・・・。
その「行きた〜い!」と願った寮長先生は現在の大沼学園には居ませんが、私が社会に出てから何故かお付き合いさせて頂く様になり、今でもお付き合いさせて頂いております。
何でその先生の所に行ける様になったか記憶が定かではありませんが、その先生も今ではすっかり「オジン」になっちゃいましたね!それは私か!ハハハ〜・・・。
結構、裸のお付き合いをさせて頂いていますよ。素敵な先生です。顔の出来は私より悪いですが、心の出来は最高ですね!そんな人ってなかなか出世が出来ないんですよね〜。今の世の中、何かが違う変な世の中ですよ。(顔のことは冗談ですよ!)
そんなんで、一時帰省が出来ない生徒には「分散」がありました。そして一時帰省で学院には生徒が少なくなっていますから、雪かきと掃除が大変でした。その他は特別な事も無く静かなお正月だったと思います。
そうそう、雪かきと掃除が大変でしたね〜。だから、
「早くみんな帰って来ないかな〜。」
って思った時もありましたね〜。学院のお正月はこんな感じでした。
今回はこのへんで。
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