まきおの『こんな人生だからこそ』

第6章 「最初の調べごと」

≪はじめに≫

 今回話す事件も、大沼学院に入って直ぐに起こった事件のことだ。
そして児童相談所に居た頃とは、かなりの点で大きく違っていた。
いや、あまりに違いすぎていた。・・・

 一人の生徒が何か事件を起こせば、それは団体責任となる。
当然のことではあるが・・・。

 「何故こんな風に・・・」と驚いた。
 何でもかんでも、何故こうして団体責任をとらせるのだろうかと・・・。
 これから先、何ヶ月、いや何年ここに居るのか分からないけれど、「もぅ、一日たりとも居たくない!直ぐにでも逃げ出したい!」と思ったのも無理はない。(その内容は次回お話しさせていただくとして)
   「脱走しょう!」
が、なぜ脱走しなかったのか・・・。
 いや、しなかったのではなくて、怖くて出来なかったのではないだろうか?と、その時の思いを自分に問いかけてみても返事は返ってこない。・・・

冷えきった講堂

 事件はある日の午後、校内で起こった。

 生徒全員が校舎に召集されたのだ。
薄らと記憶に残るその季節は冬だったと思う。

 生徒は校舎での勉強も終わり、寮に帰っていたときに召集されたような気がする。
何故なら、その時に校舎の生徒専用玄関の、下駄箱のどの棚に靴を置いてよいのか分からず悩んだのを記憶していることから、本当に入院して直後の事件だったと思う・・・。


 召集され場所は「講堂」という処で、校舎とは廊下で繋がっていて、校舎正面玄関から入って一番奥に位置していた。
 講堂といえば一般的には講義を聞いたりする場所で、室内でスポーツをする時は体育館などという専門の施設があり、「講堂」とは別なものだが、私が居たその時代の大沼学院は総てその講堂で行われた。

 校舎は木造平屋建ての、三角屋根の古い建物だった。 木造モルタル建てでは無かったということも付け加えておこう。

 当時、その講堂には暖房設備など無かったと思うが・・・。
後に暖房設備が設置されて感激したことが記憶にあるからだ。
とても寒い講堂で、黙っているだけで風邪を引いてもおかしくないほどの寒いところ。
 まして当時の生徒の服装は夏であれ、冬であれ、なんであれ、年がら年中上から下まで作業服姿だった。後に私が中学生になった頃だと思うが、上下作業服姿は廃止されたが・・・。

 そんな服装と、冷えきった講堂に全生徒が招集され、一列に並んだ記憶がある。
並び方はクラス別だったか寮別だったかは覚えてないが、一列に並び、前から順に番号を云い点呼を取る。そして列の最後尾の生徒が「何々、何名。異常ありません!」と報告するのだ。まるで軍隊の様だった・・・。
 その様や、見るもの、聞くもの総てが怖いものと感じた。
 そして、「これから何が始まるのだろ〜?」という恐怖。
 冷えきった講堂でこれから始まる事が自分には想像もつかない恐怖と不安で一杯になっていた。
 そのことが今でも記憶にハッキリと残っている。

 そして今日までに、その様子を過去に二度、夢で見ていることも記憶に残っている。

 何故あのときのことを二度も夢で見ているのか・・・。

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≪あとがき≫

 私がこうして大沼学院在籍中のことを書くのは、「こんな酷い事が学院で行われていた」ということを世間に公表しようとして書いているのではない。
もちろんこんなことが現在の大沼学園で行われているとはあり得ない。
 では何故に書くのか?

 前にも書いたが、確かに人様には自慢できることなど私の人生には一つも無いかもしれない。
それどころか、人には云えない恥ばかりをさらけ出しているのかもしれない。
しかし、その恥が少しでも後輩達の心に届くならと願うからだ。
奇麗事ではない。
 自分の恥をさらけ出してまで奇麗事を云えるほど、私は賢くも頭が良いわけでもない。
まして賢い人なら、親や自分の恥をさらけ出すことなどするはずもない。
私は、人に劣るからこそ、自分なりに一生懸命努力してきた。
いつかきっとそれが報われる日が来ると信じて・・・。

そう、多くの罪を犯しながら人生の勉強を・・・。
 ただそれだけでしかない。

これからも「いつかきっと」それを信じ続けていられる自分でありたい。
だからこれからも勉強さぁ!

 芳泉寮の先生が自筆で書かれ、額に入れて部屋に飾ってあった格言。

 「人に劣る者は陰で努力せよ」

この言葉は忘れられない・・・。

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