まきおの『こんな人生だからこそ』

あらためて

 前回は産まれての生い立ちを少し書きましたが、ここであらためて申しておきます。
私は自分の生い立ちを書くことでこのページをご覧の方々に、慰めていただこうとか同情を頂くために書いているのではございません。また、愚痴をこぼしているわけでもありません。
 先日、自宅のポストにわざわざ何かの雑誌か新聞かは分かりませんがその一部なのかコピーをしたものが無名で投函されてありました。
 その文章の中身は(どんなに辛くとも、愚痴をこぼし泣き言をいって眠るより前向きに良い夢でも見て寝るほうが明日に繋がる)というような内容のものでしたが、それを拝見させていただきとても虚しく、また悲しく感じました。内容ではなくその行為に対し、その方には私が書いていることが私の単なる愚痴や泣き言にとらえられたとは・・・。少なくとも投函されたその方にはそう感じているのでしょうね。
 私が今こうして存在するのは、また多くの事を気づき学ばせてくれたのは、産んでくれた母や、育ててくれた母、また様々な方がいてくれたからこそ学ぶことが出来てこそ今の自分がいる訳ですが、だからこそ感謝していますし愚痴をこぼしたり泣き言をいっているつもりはありませんが、ですが投函された方に誤解を与えたようで、我ながら情けないやら悲しいやらで何と申し上げてよいのやらと感じております。
 何処のどなたかは分かりかねますが、もし私のことを安じてのご配慮でございますなら、心より肝に銘じて精進させていただきたいと思います。
 付け加えまして、ご投函されます際にはお名前とご住所を書いてご投函していただければ大変ありがたく、お礼のお手紙を出させていただきますので今後とも宜しくお願いいたします。

第2章 「あまりに早く訪れた人生の選択」

 さて、前回は丸井今井の看板が見えたけれどそこは札幌ではなく違うところと分かってまた捨てられると思い泣いたところまで行きましたが、その結末はそこは、函館で育ての母の実家、砂原(駒ケ岳の裏・太平洋に面した町)でそこに行く途中函館に立ち寄ったと記憶しています、私を預けに来た訳ではなかったことは確かです。
 書いているうちに思い出したので突然お話が飛び、砂原の実家のおトイレのお話になりますが、お上品に書いてはおりますがとてもおトイレといえる代物ではなく、40年以上も前の話で田舎のトイレですから水洗でもなく家の外にあって落とし便所です。長方形の形をした穴の両サイドに足を乗せるぐらいの板が打ってあり、前には20センチぐらい立ち上がった隠し板が張ってあり。両サイドの板に足を掛け、跨いで座るのですが大きいほうをするときのコツは、排泄した便が下に着く前に軽く立ち上がり回避するという(かからない)テクニックが必要なのです。でないと跳ね返ってくるんですよ!でも春先は特に貯まっていますからどうしてもかかってしまいますね。
 また冬は板が滑るんですよ、ですからむやみに慌てて立ち上がっては危険!危険!超危険でした。田舎は畑を持っている家が殆どですから、春になったら畑を耕して肥やしを撒き土に栄養をと肥やし撒きますからそのために特に2月3月の冬の間は貯蓄しておくんですよ、だから冬は子供にとっては特に危険が一杯って感じゃないですかね。
 現代子には理解しがたい様子でしょうね。だから昔はよく肥溜めに落ちたとか云いますが本当です。実際に、私も落ちはしませんでしたが足を踏み外して片足突っ込んでかろうじて引っかかったことはありますよ。砂原では(苦笑)
 ですが中学2年のとき肥溜めにも落ちた経験の持ち主でもあります。それでうん?運が・・のかも◇#○$□%×&△!

今こうして笑って話せるって良いですね〜。善いにしろ悪いにしろ経験豊富で!話題に事欠きません、書きながらその時の出来事を思い出しては書いていますから脱線しっぱなしで失礼いたします。

 話を戻しますが、産まれてまもなく養子に出され小学校1年生まで根室で育ちました。幼稚園時代の一部と小学校入学式の事は記憶に残っていますが、幼稚園入園式のときウエンウエン泣き喚いたのを覚えています。
 母さんにまた捨てられると勘違いして腹の底から泣き喚きましたね。
それが原因なのかは分かりませんが、脱腸になってて下腹部の左横を押さえる医療器具を着けて生活していたことを覚えています。何歳から何歳までかは覚えていませんが、小学3年生の時にはもう着けてはいませんでしたね。何歳からだったのでしょうか???
 根室に居たときの記憶の中に、幼稚園でソーラン節にあわせて幼稚園の舞台で踊りの練習をしたことは記憶にありますが本番で踊った記憶はないですね。数少ない幼い頃の写真の中にそのときの写真があります。自分にも、そんなあどけない可愛い子供時代があったわけで・・・。そういえば抱っこちゃんを嬉しそうに抱えてる写真もありますね、当時大変ブームになったそうです(黒ん坊ちゃん)私と同じくらいの世代の方ならご存知かと思います。
 痛い思い出としては木の枝に縄でブランコが作ってあり乗りたくて枝に巻きついてあったブランコを下ろそうと思い、木に登りブランコを下ろしている最中に下ろすどころか自分が落ちてしまって右腕を骨折してしまった痛〜い思い出があります。
 幸い肘を単純骨折ですみましたが田舎の個人病院であったことと、何よりも先生に触られるのが痛くて嫌で、逃げ回ったそうですが凄かったらしいです。(記憶にはございません)育ての母から教えていただいたお話です。
 そのせいなのか右腕は肘の関節から下へ曲がって着いています。そのことが、のちの人生に大きく影響するとは当時知るよしもありませんでした。
 あとの記憶といえば叱られてたときの事で、母が(逃げなさい!逃げないと叩かれるんだから逃げなさい!)って言っても逃げないでこらえていた記憶ですね。
 なんでそんな記憶が残っているのか自分でも不思議で、社会人になってから母にそのことを聞いてみましたが、矢張り逃げなかったらしく幾ら逃げなさいと言っても逃げるどころか(叩け)とばかりに頭を突き出してたそうです。その頃からもう既に要領の悪さの芽は芽生えていたんでしょうね。ハハハ(苦笑)
 幼稚園入園の記憶から小学校入学式の時の記憶までの間で覚えている確かな思い出といったらそんなところでしょうか、ホントに数少ない記憶です。
 小学校入学式から小学3年生までの記憶が飛んでいるんです、ポツンポツンとあるその間の記憶や思い出が小学何年生であったのか、学校はちゃんと通っていたのかという確かな記憶や思い出がないので、これから書く話は小学何年生とは分かりませんのであしからず。

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子は親を選べない

 場所は札幌、実の母親のところに居たり、実の父親のところに居たり、知らないおばさんのところに居たりと小学3年生までの記憶が定かではありません。
この中で唯一記憶ある思いでは実の父親のところに居るときに、円山小学校に転校生として入り教室の皆の前で照れながら挨拶したことを覚えているだけでその後学校に通っていたのかさえ記憶にないのです。何年生だったのかさえも・・・。
 小学3年生のある時期(自分が思う人生の転機)までの居た最後の家庭は、後に知った実の母親のところで、身体障害を持つ妹と足の先から手まで体中ビッシリ刺青が入った妹の父親(親爺)と、周りには同じ刺青が入った怖いおじさん達と荒々しいオジサン達が居ました。何故わざわざこんなことまで書くのか?また、恥を曝すのか。
 冒頭でお話したように、自分はカッコつけようとか同情を頂こうとかなんて、これっぽっちも思っていません。これが自分の恥ならば、また、家族の恥というならばあえて恥をかいてもいいでしょう。なんと想われようと、今こうして存在することに、心から感謝しているからこそありのままを書いています。たとえ恥をかいてでも書きたい理由がそこにはあります。正直に、見えも張らず、かっこつけずにです。(愚痴でもありません)
 いずれ分かります、私がそこまでしてなぜ書こうとするのかが!?
 そんな馬鹿な愚かな奴が一人や二人いても善いじゃないですか。
 他人の人格は外見(外面)では判断しないが私のモットーです。それも人生の素晴らしき諸先輩の皆さんから学びました。
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地獄の環境から天国に行きたくて

 話を戻し、結局実の母の家庭に戻った訳ですが、私の日課はある日突然現れた私の、というよりその家庭にしてみれば突然現れたのが私になりますが、突然できた妹、富士子(産まれながらの障害児)の世話係。妹は全ての排泄(大・小)が出来ず全てお腹のところでオシッコと大便を医療用具を使用して処理していましたが、特殊な用具で、1級身障者と認定され補助金が出るまでには大変長〜い年月とそれまでには大変なお金が掛かったと後に母から聞いて知りましたが、その妹のオシッコを溜めるチューブと大便を排泄するオムツみたいな処理をするドーナッツ状の用具に溜まった大便の処理をすること、これが嫌で家に帰りたくなかったでしたね、何よりもそれ以上に妹の父親が酒を飲めば暴れるは、目の前にある物は何でも投げるは、それが人であろうと物であろうとお構いなしです。
 母は夜も仕事に出かけて留守、妹と二人で小さく丸くなって怖い思いをして寝ていました。本当に怖かったです、夜はとにかく怖かったです。酒を飲んで帰ってくる親爺が怖くて怖くて・・・後に母から聞いて知ったことですが、母は耳が遠いのですがそれは鼓膜が破れているからだそうです。また、あばら骨も折れて着いています。ちなみに私も左のあばら骨が折れて着いています。これ以上のお話は書きませんが何故そうなったのかは皆さんのご想像にお任せいたします。
 そんな環境ですから家に居たいはずも無く、学校が終われば真っ直ぐ家に帰らず、親爺が飲みに行って出かけるまで家に帰らず線路のところで時間をつぶしたりして様子を伺ったりもしました。そんなことがいつまでも続くわけが無く見つかっては袋叩きにされていました。そんな環境の中、私も子供ながらに知恵がついて何度目かは分かりませんが一度学校をサボって歩いて街に探検に行ったんです。ちなみにその頃は豊平区東札幌2条11丁目ぐらいの所に住んでいましたから街まではそう遠くはなかったですが、歩いてTV塔まで行き3階でブラブラしていると(僕、学校どうしたの?)って問いかけてくるおばさんがいるのです(補導員です)。名前を云ったら学校サボったこと親爺にバレて袋叩きにされると分かっているから一目散に逃げた逃げた!ここで捕まったら最後と思っているから、逃げ切らなきゃと必死に逃げ回りましたね、ゲーム機の間とかね。その時のことを思い出しながら書いていますが、書いていてその時の光景を思い出してはおかしくて笑いながら書いている変な私です。結局捕まってしまいましたがこちらは必死、名前も言わず何も喋らずにいたら児童相談所という所に連れて行かれたわけですが(経緯は覚えていません)、この場所が私にとっては天国だったんです。先生達は優しくて同じくらいの仲間が居るし。だいいち、妹の世話をすることもなければ親爺に袋叩きにもあわないし最高の場所と知ったわけです。
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地獄だったあの頃も今ではよき思い出

 それからというもの、児童相談所に行きたくて学校をサボってはTV塔に行き補導されることの繰り返しをしました。すっかり常連さんです。その頃の児童相談所は中央区の植物園の傍にありましたね。児童相談所に入れてもらっても、また直ぐ家に返されるんですよ、ず〜っと居させてくれないんですね、出されたら直ぐに戻りたくて繰り返す。でも同じことばかり繰り返してもスッカリ補導員の方には常連で顔がわれてますから今度は児童相談所に連れて行ってくれず中央警察署に連れて行かれ親が迎えに来るのを待つのです。
 その頃はもう名前を言わなくても顔パス状態で、黙っていても自動的に迎えに来るのですから、自慢できることではありませんが当時の自分としては必死そのものだったそんな自分の思い出を今こうして笑って書けるなんて・・・、今となっては良き思い出です。もちろん連れ戻されては親爺に袋叩きにあいましたけれどね。ハハハ、ハッ、ハッ、ハー!
 それでも幾ら袋叩きにあっても児童相談所に戻るんだー!ってなことで、しっかり学習しているんですよ。ただ補導されただけでは戻れないことを悟ると、悪いことをし始めましたね。人様の家の庭先で盆栽やらを主が見ている前で壊したり、それでも駄目ならとシャッターが開いている倉庫の中に忍び込んで倉庫にある箱をこじ開けて荒らしたりと、だんだんエスカレートしていきました。どちらのときも親爺にメチャクチャ袋叩きにされました。ガハハハハー!よく生きてたな〜と思います。
 歳相としてはささいな悪事からとんでもない悪事まで色々したと思います。
自分に都合の悪いことは忘れました、記憶にありません!ハハハッ(苦笑)実はその頃のことで覚えているのはそんなところなんです。アッ、親爺が庭に網を張って鳥を捕まえては食べたり観賞用に飼ってたりしたのも覚えていますね。イヤイヤ食べさせられた記憶があるから覚えているのかは定かではありませんが。
 それまでに私がご迷惑をお掛けしました皆さん、お世話になった皆さん!この場を借りて深くお詫び申し上げます。そしてこうして今があるのもその方々のおかげであることにも深く感謝いたします、ありがとうございました。
 ちなみにそのころの私の名字は鈴木です、鈴木真樹生です。この名前を聞いてお心当たりのある方はもう時効です。ハハハ(苦笑)
 今思えば、親爺も本当に善い思い出を残してくれました。その時に受けた心の傷が癒されるのには確かに時間が掛かりますが、身体で受けた傷の痛みがどれだけ痛かったかは本当のところ覚えていませんもね。本当に善い思いでとなりました。今こうして笑って書けるなんて。ありがたいです!
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さまようあまりに記憶が無い

 結局、念願かなって児童相談所に戻れたわけですが、かすかな記憶の中に一時、室蘭あたりの養護施設にどれだけの期間かは分かりませんが入っていた時期があるんです。
 どうしてそう思うのかというと、その施設に居るときに小学館という本の景品に応募したところ(おばけのQちゃん)のついた鉛筆サックが当たって喜んだのを覚えているのと、施設の隣がお寺で墓地があるのですが、雪でそのお寺の自宅の屋根が押しつぶされて誰かがお亡くなりになっているのですが、その晩、施設の窓から火の玉を見たこととその施設に柔道部があって練習している様子を隠れて見たことだけ記憶に残っています。
 それ以外その施設で覚えていることが無いのです。でも確かにそんな施設に一時居たことは確かです、期間は分かりませんが・・・。その施設に居たのも小学3年生の後期以前であることは確かです。それからどうなって児童相談所に戻ったかは分かりませんが小学3年生のときに居た児童相談所は琴似にありました。傍に団地があり線路もありましたね。
 児童相談所が中央から琴似に移転して両方の児童相談所に居た経験を持った子供もそう多くはないことでしょう。
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人生の選択

 琴似の児童相談所で、一度脱走した事があります。何故逃げたのかが自分でも理解できないのです。家よりず〜っと住みよい場所だったはずなのに逃げた理由は覚えていないのです、きっとそうじゃないかと思われるそんな記憶があります。
 ある日、面会室に呼ばれ、担当(西條)先生に(真樹生君をいつ迄もここにおいてはいけないんだよ!そんなに家に帰りたくないのかい?)と聞かれ(嫌だー!)って答えると、ある施設の写真を見せてくれたんです。上級生ばかりの施設でしたが家に戻されるよりマシだと思ったんです。先生が(どうだい?ここに行くかい?)と聞かれ(ウン!)と答えたやり取りは記憶に残っています。
 いずれにせよ、もうこの児童相談所には居られないことを悟って逃げたのかな〜とも考えたりもしたのですが前後が定かでないために本当の理由は本人の私でさえ判りません。
 その真相は私の担当であった西條先生が判っているかもしれません。その西條先生ですが、西條先生とは今でもお付き合いをさせていただいております。それもどういう偶然か、私の自宅とは目と鼻の先に住んでいらっしゃいます。ここしばらくご無沙汰していますが機会があればそのときのことを聞いてみたいと思いますね。
 そうして自分が家に戻るのが嫌で(ウン!)と言って行くことになった施設は道立の教護院、大沼学院という所でした。(小学3年の冬)。このときが自分では、人生が大きく変わる人生の転機だったように思います。
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勇気を持って

 今回はここまでとさせていただきたいと思いますが、常識のある方ならこのような過去は早く忘れたいと思う恥ずべき事柄かもしれませんが、私にとってはそんな過去があるから今の自分が存在するわけです。
 そんな恥ずべき過去であろうとも、また、これから先をさらに書き続ければ書き続けるほど恥の上塗りとなりますが、私にとっては何物にも変えがたい価値ある財産です。
 どんなにお金を積んだとしても決してお金では買えない人生で得た財産です。
 では何故そうまでして面前にさらけ出そうとするのか?わざわざそんな恥を!ですが、
 第一に、皆様にどうとらえ様とも私自身、それらのことを決して恥とは思っていないということ。
 第二に、私と同じような過去を持ち、いつも影に隠れて暮らさなければならない生活を虐げられたり、後ろめたさをいつも持ちながら自分を失ってしまい、寂しさのあまり悪の道に入ってしまう若者にメッセージを送りたいのです。
 好きで選んだ人生でもない、親を選んで産まれてきたわけでもない。だがこの世に生まれてきた以上!自分で何とかしなきゃ!どんなに悲惨な人生でも、どんなに苦しかった人生でも、最後は笑って終わろうと伝えたい。自分の最後のその瞬間に(お前は箸にも棒にもかからん奴だったけど、でも一生懸命たち直ろうと努力したな!お前が望む程の結果は全然、いや!これっぽっちも出せなかったけれど、でも本当に一生懸命立ち直ろうと頑張ったな!よくやったよ!よく頑張った!誰も褒めてはくれやしないけど、でも、お前がどれほど頑張ったかは誰よりも俺が一番知ってるよ!)と、そう最後に自分を褒めてやれる自分がいればそれが最高ではないかと・・・。
 それこそが価値なのではと私は思っています。財産は姿かたちを変えてあらゆる人・物に降り注ぐと実感しています。綺麗事を言うつもりもありません、哲学らしきことを語る気もありません。私にはそんな教養も知識も学歴も学識もありません。世間に自慢など出来るものなど何もありません。ただ、自分に負けじと果敢に挑戦していくことが一番大切なことではないかということを学びました。そのことをどうしても私の生い立ちを通じて伝えたいのです。
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感謝

 こんなどうしょうもないクズも自分なりにでも、今頑張っているから君達も負けずに頑張ってくれー!と云いたいのです。そのためには綺麗事でも一般常識でも理論や理屈ではなお耳を傾けようとはしない。経験こそが、そのような者の心を開く鍵だと私は思っています。過去の自分がそうであったように・・・。
そう信じるからこそ私自身の恥であるべく経験を媒体として、メールを送ろうとしています。私が悪ガキだった頃、同じ悪仲間だけを信じたときのように・・・。

 これが芸能人なら大スキャンダルになるんでしょうね。芸能人でなくて良かった!

 たとえ私のような生い立ちでない方でも理解してくれる方々は多くいると思います。
また、そう信じたいです。今回は長々と書いてしまいましたが、続けれる限り最後のメッセージまでを書くよう努力いたします。

 最後に、どうしょうもなかったクズをここまで育ててくれた全ての皆様に心より深く感謝いたします。また、そんな私のためにご苦労と多大なご迷惑を被りました皆様に深くお詫び申し上げます。そして最後に、私を産んでくれた母に心から感謝しています。
ありがとう母さん!そしてみなさん!
母へ、どうしょうもない馬鹿息子でゴメンよ。

平成16年5月1日

荒町 真樹生

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